恋はもっと、すぐそばに

第4章 電車で出会った光

金曜日の夕方、時刻は十八時十五分。美咲は疲れ切った体を引きずるようにして七両目に乗り込んだ。今週も結局、編集長の期待に沿った軽い記事しか書けなかった。企画書の修正を重ねるうちに、自分が何を書きたかったのかさえ分からなくなっていた。

車内は帰宅ラッシュの乗客で混雑していたが、ドア付近に一つだけ空席を見つけた。そこに座ろうとした時、隣の座席には三十代前半と思われる男性がすでに座っており、静かに経済誌をめくっていた。美咲は一瞬視線を向けたが、すぐに自分の席に腰を下ろした。

習慣的にスマホを取り出し、ニュースアプリを開く。トップに表示されたのは芸能ニュースとファッション情報。指でスクロールしながら、心の奥で小さなため息が漏れる。隣の男性の読む経済誌の見出しが視界の端に入り、無意識のうちに内容が気になってしまう自分に気づいた。

もう少し下にスクロールすると、経済面のニュースが現れた。「新興国経済圏の地政学的影響について」という見出しに、美咲の指が止まる。記事を開いて読み始めたが、解説があまりにも表面的で、思わず眉根を寄せた。

「この分析、何か違和感がある……」

小さく首をかしげながら記事を読み進める美咲。無意識のうちに、疑問を抱くような表情になっていた。隣の男性も時折小さく首をかしげながら雑誌を読んでいる。

数分の沈黙が流れた後、隣の男性の声が聞こえた。

「その記事、読まれてるんですね」

美咲は驚いて顔を上げた。隣の男性が、温かい笑顔で話しかけてきていた。茶色い瞳が優しく輝いている。

「あ、はい……」美咲は慌ててスマホを胸元に引き寄せるような仕草をした。こんな硬い記事を読んでいるところを見られてしまった。また「女性らしくない」と思われるのではないだろうか。

「実は僕もその記事、気になっていたんです」男性の声は穏やかだった。「少し偏った分析だなと思って」

美咲の心臓が高鳴った。久しぶりに聞く、知的な会話への誘いだった。

「偏ってる、というと?」

思わず身を乗り出していた。男性の目がさらに輝く。

「データの解釈に文化的バイアスが含まれていて、西欧的な経済理論の枠組みでしか現象を捉えていないんです。新興国には独自の社会構造や価値観があるのに、それを無視した分析になってしまっている」

美咲は息を呑んだ。自分が感じていた違和感の正体が、まるで霧が晴れるように明確になった。

「そういう見方もあるんですね! 私も読んでいて、何か違和感を覚えていたんです。でも、それが何なのかはっきりしなくて」

「ああ、やはりそう感じられましたか」男性の表情が明るくなった。「それは鋭い洞察力ですね。多くの人は表面的な数字や結論だけを見てしまいがちですが、あなたは本質を見抜こうとされている」

美咲の頬がほんのりと温かくなった。自分の直感が間違っていなかったという安堵感と、それを認めてもらえた喜びが胸の奥で静かに燃え上がる。

「でも、私なんてただの感覚で……専門的な知識があるわけじゃないんです」

「感覚こそが大切なんですよ」男性は静かに微笑んだ。「知識は後から身につけることができますが、本質を捉える感覚は生まれ持った才能です」

電車は次の駅に停車した。乗客の入れ替わりの喧騒の中でも、二人の会話は途切れることがなかった。

「ところで、人間の幸福って何だと思います?」

突然の哲学的な問いに、美咲は少し戸惑った。でも、逃げたくなかった。こんな深い話ができるのは、いつ以来だろう。

「自分らしく生きることでしょうか」

言った瞬間、自分の答えに驚いた。普段なら「みんなと同じように幸せになること」とでも答えていただろう。

男性は深く頷いた。「それは個人の内在的価値を重視した考えですね。とても哲学的で、本質的な答えだと思います」

美咲の心が震えた。「哲学的」「本質的」。そんな言葉で自分の考えを評価されたのは初めてだった。

「でも最近、自分らしさって何なのか分からなくて……」

思わず本音が漏れた。美咲は慌てて言葉を濁そうとしたが、男性の真剣な眼差しに言葉を続けることになった。

「社会的期待と本来の自分との乖離に悩んでるんですか?」

美咲は思わず息が止まった。まるで自分の心を見透かされたような気がした。

「え、なぜそれが……」

「あなたのさっきの表情や、質問の仕方から、そう感じました。とても深く物事を考える方だということも」男性の声は優しかった。「でも周囲からは『考えすぎ』と言われることが多いのではないでしょうか」

美咲の目に涙がにじんだ。図星だった。

「はい……いつも『硬い』とか『女性らしくない』とか言われて」

「それは周囲が表面的すぎるんですよ」男性の声には確信があった。「あなたの知性は隠すべきものではありません。それはあなたの最も美しい部分です」

電車のアナウンスが響いた。男性の降車駅が近づいているようだった。

「あの、差し支えなければ、どんなお仕事をされているんですか?」

「大学で研究をしています。人間の心理と社会の関係について」男性は立ち上がりながら答えた。「あなたのような方と話していると、新しい発見があります。とても有意義な時間でした」

美咲も慌てて立ち上がった。「私も……こんなに深く話せて、本当に楽しかったです」

ドアが開き、乗客が降り始める。男性は振り返った。

「また同じ時間の電車で会えるかもしれませんね」

その笑顔は、まるで美咲の心に灯された小さな光のようだった。

「はい、ぜひ」

ドアが閉まり、電車が動き出す。美咲は窓越しに、ホームに立つ男性の姿を見送った。彼は小さく手を振っていた。

座席に戻った美咲の胸は高鳴っていた。久しぶりに感じる知的な興奮、そして何より、自分を理解してもらえたという深い安堵感。

「あなたの知性は美しい」

その言葉が心の中で何度も響いた。今まで否定され続けてきた自分の一部を、初めて肯定してもらえた。涙がこぼれそうになるのを必死にこらえながら、美咲は窓に映る自分の顔を見つめた。

いつもより生き生きして見える。これが本当の私の顔なのかもしれない。

美咲の心の中で、長い間眠っていた何かが静かに目を覚まそうとしていた。
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