恋はもっと、すぐそばに

第6章 二つの世界の狭間で

月曜日の朝、美咲は編集部のデスクに座りながら、心の中で小さな戦いを繰り広げていた。今週提出予定の「恋愛コーデ特集」の企画書をパソコンの画面に表示しているが、指がキーボードの上で止まったままだ。

金曜日の電車での出会いが、まだ胸の奥で静かに燃え続けている。あの人の言葉――「あなたの知性は隠すべきものではありません」――が何度も心の中で響いていた。

でも現実は違う。今、美咲の前にあるのは「今月の恋愛運を上げるピンクコーデ」という見出しだ。読者が求めているのはこういう軽快な内容で、深く考える必要などない。

そう自分に言い聞かせながらも、美咲は無意識のうちに記事に深みを加えようとしていた。「なぜピンクが心理的に魅力的に映るのか」「色彩心理学における恋愛効果の科学的根拠」といった文章が、気がつくと原稿に紛れ込んでいる。

「美咲ちゃん、また難しくしてない?」

振り返ると、編集長が眉をひそめながら美咲の画面を覗き込んでいた。

「あ、はい……すみません」

美咲は慌ててその部分を削除した。指が震えているのを自分でも感じる。

「読者はもっとシンプルで分かりやすいものを求めてるんだから。色の理論なんて要らないよ」

編集長は軽く肩を叩いて去っていった。その瞬間、美咲の胸に小さな痛みが走った。

昼休みになっても、美咲の複雑な気持ちは続いていた。いつものようにデスクで軽食を取りながら、隠し持っていた哲学書をそっと開く。ページをめくりながら、あの人との会話を思い返していた。

「今月の運勢」や「恋愛テクニック」の記事を書いている自分と、こうして深い思索に耽る自分。まるで二つの人格が一つの体の中で静かに争っているような感覚だった。

「美咲って最近変わった?」

同僚の声に、美咲は慌てて本を閉じた。女性社員の田島と山田が、微妙な表情で美咲を見つめている。

「変わったって……どういう意味ですか?」

「なんていうか、前より考え込んでる時間が多いっていうか」田島が首をかしげた。「難しい本とか読んでるし」

山田も頷いた。「男性に敬遠されるわよ、そんなに頭でっかちじゃ」

美咲の胸が締めつけられた。やはり周りは自分の変化に気づいている。そして、それを良くないことだと捉えている。

「女性は可愛げが大事よね。知性は程々にしないと」田島の言葉が追い打ちをかける。

美咲は作り笑顔を浮かべるしかなかった。「そうですね。気をつけます」

でも心の奥では、激しい疑問が渦巻いていた。なぜ女性だというだけで、知性を隠さなければならないのだろう。あの人はそう言ってくれたのに。

火曜日、水曜日と過ぎていくにつれ、美咲の内面の葛藤は深まっていった。編集長からは相変わらず「もっと軽やかに」という指示が続き、同僚たちの視線もどこか冷たく感じられる。

それでも美咲は、毎日同じ時間の電車に乗ることを続けていた。あの人に再び会えるかもしれないという、かすかな期待を胸に抱いて。でも月曜日も火曜日も、同じ車両に彼の姿はなかった。

「私、何してるんだろう」

美咲は一人でつぶやいた。まだ名前も知らない人のことを考えて、もう一度会えることを期待している自分が、どこか滑稽に思えてくる。

「恋してるの? でもまだ名前も知らない」

鏡に映る自分に問いかけても、答えは見つからない。ただ、あの人と話していた時の自分が、今までで一番輝いて見えたことだけは確かだった。

水曜日の帰り道、美咲はいつもの書店に立ち寄った。今度は迷うことなく哲学書コーナーに向かう。そこで、意外な出会いが待っていた。

「久しぶりに若い方がこのコーナーにいらして」

振り返ると、六十代くらいの女性店主が温かい笑顔を浮かべていた。

「あ、すみません。邪魔でしたか?」

「とんでもない」店主は首を振った。「最近の方は表面的なものばかり求めがちで、こういう本を手に取る人が少なくなって寂しく思っていたんです」

美咲は少し安心した。「でも周りからは、考えが硬いとか考えすぎと言われることが多くて……」

店主の目が優しく輝いた。「でも、あなたは違う。目が違います」

「目が?」

「深く物事を考える人の目です。そういう方には、ぜひこの本を読んでいただきたい」

店主が差し出したのは、「現代女性の自己実現」というタイトルの本だった。

「考える女性であることを恥じる必要はありません。それはあなたの最も美しい部分なのですから」

その言葉に、美咲の目がにじんだ。あの人が言ってくれたことと、同じような内容だった。世界には、自分を理解してくれる人がいるのだという希望が、心の奥で小さく灯った。

木曜日の午前中、美咲の試練は頂点に達した。編集会議で、先輩編集者の吉田から直接的な圧力をかけられることになったのだ。

「美咲ちゃん、ちょっと話があるの」

会議後、吉田は美咲を廊下に呼び出した。四十代前半の女性で、いつも身なりがきちんとしていて、美咲よりもずっと「女性らしい」雰囲気を持っている。

「最近のあなた、少し気になることがあって」

美咲の心臓が騒ぎだした。

「男性に敬遠されるわよ、そんなに頭でっかちじゃ」吉田の声には、親切のようで厳しい響きがあった。「女性は可愛げが大事。知性は程々にしないと」

美咲は反論したい気持ちが込み上げてきた。でも声が出ない。

「この会社で長くやっていきたいなら、もう少し周りに合わせることも大切よ。読者だって、そんなに難しいことは求めてないし」

吉田の言葉が、一つひとつ美咲の心に突き刺さった。彼女なりの親切心から出た言葉だということは分かる。でも、それがより一層辛かった。

「分かりました」美咲は小さく頷くしかなかった。

吉田が去った後、美咲はトイレに駆け込んだ。鏡に映る自分の顔が、情けなく歪んで見える。

「やっぱり私が間違ってるのかな」

でも心の奥底では、別の声が響いていた。あの人の言葉、書店の店主の励まし。「あなたの知性は美しい」「考える女性であることを恥じる必要はない」。

美咲は冷たい水で顔を洗った。どちらが正しいのか分からない。でも、少なくとも自分には選択肢があることは確かだった。このまま周りに合わせ続けるか、それとも本当の自分を貫くか。

木曜日の夕方、残業をしている美咲の元に、意外な人物がやってきた。同期入社の田中だった。

「美咲、お疲れ様」

田中は美咲の隣の椅子に座った。三十歳の男性で、いつも温厚な性格で知られている。

「田中さん、お疲れ様です」

「君の記事、削除される前の方が面白かったよ」

美咲は驚いて顔を上げた。「本当に?」

「僕も最初はみんなに合わせてたけど、それじゃダメだって気づいた」田中の表情は真剣だった。「君みたいに本当のことを書ける人は必要だと思う」

美咲の目に涙がにじんできた。職場で初めて、自分を理解してくれる人に出会えたような気がした。

「でも、みんなには受け入れられないみたいで……」

「それはみんなが間違ってるんだよ」田中は断言した。「読者だって、本当はもっと深いものを求めてるはずだ。ただ、そういう記事がないから諦めてるだけ」

美咲は深く息を吸った。田中の言葉が、心の奥で燻っていた希望の火を、再び燃え上がらせてくれる。

「ありがとうございます。少し元気が出ました」

「君らしさを諦める必要はないよ。きっと道はある」

田中が去った後、美咲は窓の外を見つめた。夕日が街を染めている。今日一日で、敵と仲間の両方に出会った。そして自分の中でも、二つの声が激しく対立していることが、より鮮明になった。

木曜日の夜、アパートに帰った美咲は、一人でソファに座り込んだ。今日の出来事が頭の中で渦巻いている。

吉田先輩の言葉「女性は可愛げが大事」。それは社会の一般的な期待なのだろう。でも田中の「君らしさを諦める必要はない」という励ましもある。そして書店の店主の「考える女性であることを恥じる必要はない」という言葉も。

何より、あの人――まだ名前も知らない彼――の「あなたの知性は隠すべきものではありません」という言葉が、心の奥で静かに響き続けている。

美咲は本棚に向かい、大学時代の哲学書を手に取った。ページをめくりながら、自分の置かれている状況について考える。

社会的期待と個人的欲求の間で、私は引き裂かれている。周囲は私に「女性らしさ」を求める。でも本当の私は、もっと深く考え、学び、成長したいと願っている。

相反する価値観の間で、美咲の心は激しく揺れ動いていた。明日は金曜日。あの人に会えるかもしれない。会えたら、この一週間の出来事を話してみたい。彼なら、きっと理解してくれるだろう。

でも同時に、不安もあった。こんなに悩んでいる自分を見て、彼はどう思うだろうか。「考えすぎる女性」だと嫌われてしまうだろうか。

美咲は窓に映る自分の顔を見つめた。その表情には、迷いと決意が混在していた。明日、運命的な再会が待っているとは、まだ知る由もなく。

時計の針が十時を指している。美咲は深く息を吸い込み、心の中で静かに誓った。

「もう少しだけ、本当の自分を信じてみよう」

その決意が、次の日の重要な出会いへの準備となることを、美咲はまだ知らなかった。ただ、心の奥で何かが静かに動き始めていることだけは、確かに感じ取っていた。
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