婚約者の弟は推しのアイドル 私なんかと同居していいのでしょうか?
婚約者と結婚寸前になった今感じていること。
人生何が起こるかわからない。この一言に尽きる。
旦那となる人は厳格でモラハラ体質だ。DV要素も持ち合わせている。こんなに結婚生活がバラ色の反対色だなんて思わなかった。
でも、結婚式の招待状とか結納とかどんどん話が進んでしまい、どんどんひどくなるモラハラの中、断るタイミングを逃していた。
義理の父母は仕事熱心な昔ながらの男尊女卑気質。
この家は、昭和で時が止まっている。
世間体とか、そんな上辺で一目ばかり気にしている一家だということに気づいたのは結婚する直前だった。
入籍という箱は甘くはない。簡単に足を突っ込んだらぬけられるものではないのだ。まさに蟻地獄。
足を引っ張られ抜け出すことができない。
断るにも両家賛成で簡単なことでもない。
交際相手は家柄がいいため、私の親は常に頭を下げて一歩下がっているような感じだ。
婚約者の両親は彼の暴言を見て見ぬふり。気が早い義理の両親は、結婚式をすると皆に招待状を送ってしまった。
結婚という名で息子を一人前にしたい。それは、孫という跡取りを作るためという感じだ。
息子が大事なため、どんなに息子が間違っていても悪いのは私だ。息子が間違っているはずはない。そんなことを平気で言う人間だ。
婚約者の家庭で結婚前提に義理の親と暮らすようになって、人間として扱われていない自分の居場所のなさに時々涙が流れた。
でも、誰にも知られないようにこっそり泣いていた。
実家にも頼れない。もう、事実婚状態。
入籍はかろうじてしていない今、どう断ろう。相談する友達もいないし、婚約者の優一は外部との連絡を絶とうとする。
この家に唯一、価値観が自由で陽気な男がいる。夫の弟の優也だ。私の将来的な義理の弟である。
次男坊らしい甘えっこで、いつも笑顔。本当に私の夫、優一の実の弟なのだろうか。
顔立ちも似ていない。優一は昭和顔。優也は令和顔。なんとなく時代が違う顔立ち。
優一が服を母親に買ってもらうような、無頓着な人間というのもあるのかもしれない。
それに比べて優也はアイドルをやっている芸能事務所に所属していて、常にファッションに気を使っている。
私自身アイドルとか芸能人に疎いため、どんな活動をしているとかどんなグループにいるのかは知らない。
でも、国民的に有名なアイドルということは認識していた。
化粧水も超高級なものを使っているようで、肌の手入れにこだわりがあるおしゃれ男子らしい。
収入もいいし、外見で飯を食っているような人だからそれも仕事のうちなのかもしれない。
私よりもずっと肌のきめが細やかで透き通るような色白だ。
髪の毛もシャンプーやトリートメントも自分専用の美容室でしか手に入らないような高級感のあるボトル。
ボディーソープも自分だけの肌にいいものを使っており、普通に売っているものとは一味違う。
優也からはいつもいい匂いがする。
笑顔も極上で、唯一の癒しだ。
今は同居しており、正式に入籍するまで、婚約者の実家で義理の両親と生活をしている。
これは、私に嫁としての作法を教えるとか慣れてもらいたいという計らいらしいが、ただのいじめにしか感じない。
もう、結婚式場も抑えているし、招待状も送っているけど、この結婚は今すぐ辞めるべきじゃないだろうか。
でも、世間体を気にする親たちが簡単に納得するとも思えない。
優一はきっと何でも言うことを聞いてくれるおとなしい女性を選んだだけ。
好きという感情はそこには存在していないことを感じている。
優也は男子厨房に立たずなんていう家風とは真逆で、積極的に好きなもの、食べたいものを自分作り、もてなしてくれる。
この家で唯一自由に笑顔をふりまく心も見た目も美しい男性だ。
二十三歳で有名な偏差値の高い慶明大学を卒業して、芸能活動をしているとか。
詳しいことはしらないが、地方公演や泊りの仕事が多く、時々実家に帰ってくると聞いていた。
優也という人間はこの家にはとても珍しいタイプで世間の価値観に縛られることはなく、自然体で生きている。
就職も将来も何も心配なく好きなことをしているように思う。
「美菜さん、一緒に食べない? 俺のスペシャルランチ」
にこやかに笑う顔は歳よりもずっと幼い。昼間はふたりきりなので、同じ歳ということもあり、同級生みたいな距離感だ。
私自身も大学を卒業したばかりの二十三歳。
現役生アイドルは目の前にいるとオーラが違う。
顔面偏差値はもちろん、育ちがいいのがにじみ出ており、ひとつひとつの動作がきれいだ。
「優也君、料理上手だよね」
昼間の時間帯は優一は仕事で自宅にいないし、両親も仕事だ。義理の両親は会社を経営しており、夫は公務員であり職安で働いている。それなのに、この優也という男は、好きなことをして生きている。よく、許されたものだ。将来の不安とかはないのだろうか?
昨晩の記憶――
「美菜、おまえがしっかりしていないから俺の探している本がなくなるんだ。専業主婦なら、きっちり掃除しろ。それに、生焼けの魚を俺に出すなんて嫌がらせか」
まだ正式に主婦じゃないけど、家政婦扱い。
完璧主義の婚約者に怒られてばかりの日々。私は全く出来の悪い女だ。
罵倒されるのは日常茶飯事。インテリジェンスで学生時代は優等生だっただろう未来の夫。
まさかこんなに激昂するような人間だと思わなかった。
外で会う時はいつもにこやかで、物腰は穏やか。だから、結婚を約束した。
世間からはいい人と思われているであろう理想的な人間。
誰も本当のことなんて信じてくれない。
あの人の本当って何? 真実の姿って何?
なんでこんなに苦しいの?
涙が流れる。辛い。
優一は風呂に入ると言っていなくなり、両親は外食してくるため、不在だ。
「涙、拭きなよ。昔から兄は気難しいんだよ」
優也は優しい。相当なお金を稼いでいるのに威張ることもしない。
有名人なのに気取ることもしない。
ただ、優しい。顔だけがいいだけだと思っていたけど、性格もいい。
タオルハンカチに心が癒される。
「ねえ、美菜さんは兄のどこを好きになったの?」
「真面目で優しい所」
即答だ。でも、優しいというのは違う。
みんなの前では優しいというところというのが正解かな。
「たしかに兄は生真面目だけど、完璧主義だから家族としては面倒なタイプなんだよね。それに、優しいっていうのは表向きで昔から家族には結構冷たかったんだよね。俺は異端児だから、特に塩対応だったんだよ」
「本当に真面目で優しい人なのか、今になってわからなくなったなぁ」
涙はなかなか止まらない。
「美菜さんの料理、俺は好きだな。料理初心者で、不器用ながら一生懸命栄養バランスと見た目を意識して作ってるでしょ」
胸がきゅんとなる。こんな気持ちはいつぶりだろう?
屈託のない笑みに癒された。温泉に行って、ほっこりした気分、そんな感じだ。
子猫のような甘え上手な弟君。髪の毛をくしゃくしゃにして撫でまわしたくなる。こういうのを損得を問わない純愛というのだろうか?
相手の地位や学歴や職業ではなく、直感で好きだと思える事。
本能が勝手にうずくこと。
まぁ、相手は芸能人。どの女性も同じ気持ちになるだろう。
優也は目の前のかわいそうな人を放っておけないだけ。
だって、私はアイドルや女優のような美しい容姿ではない。
料理も下手。自分のいいところが思いつかない。
瞳が大きく、優也の髪の毛は金髪でこの家では異端児だ。顔立ちは長男と両親が似ており、優也だけ別の顔立ちだ。
祖父母似なのかもしれない。
「美菜さんって、彼氏とか結構いたの?」
私なんかの料理を優一が食べ残した残り物を天下のアイドルが食べてる。しかも、嫌な顔ひとつせず。
この人、めちゃくちゃ性格がいいんだな。
逆に申し訳ないな。私なんかの料理なんか食べさせてしまって。食事とかカロリーを気を付けていそうなのに。
私なんかの恋愛に興味あるわけないのに、気を使って場をつなげているのかな。
私がここにいる存在自体申し訳なさ極まりない。
「彼氏なんて全然いないですよ」
「やっぱり兄みたいな男が好きなの?」
「そういうわけじゃないよ。私のことを好きだと言ってくれれば好きになると思うけど」
「好きになってくれた人が好きな人ってこと?」
「アイドルやってる優也君に私の恋愛価値観なんて話してしまうなんて。申し訳ないです」
「申し訳なんかなくないよ。俺、美菜さんの恋バナ聞きたかったし」
彼は、気を使っている様子もなく、普通に話してくれている。そんな彼の声は私に心地よく響く。
久しぶりだ。誰かとこんなに楽しいと思いながら話をしたのは。
モラハラではない扱いを受けたのはいつぶりだろう。人間として、一人の女性として扱われた。そんなちっぽけなことが嬉しい。
嫁としての役割とか、世間体今はない普通の会話。
こんなに心地よく幸せなんだな。世の中の女性はこんな気持ちで恋人と付き合っているのだろうか。
ほとんど恋愛経験のない私にはわからないことばかりだ。
こんな気持ちになっているなんてアイドルの優也とファンたちに申し訳ないなと思う。
「いつまで、優也君はここにいるんですか?」
「美菜さんがいるなら、一人暮らしするの辞めようかな」
「私のことが心配って思ってくれてるんですか。ありがとうございます」
「うちの家族、意地悪だからね。いざとなったら助けるから」
国民的アイドルが私ごときを助けるとか言ってるんですけど。なんだか気を使わせてしまっている。
優也に裏はなさそうで少し安心した。
今、優也のファンになってしまった自分がいた。きっとこの人のファンは全国各地にいる。
芸能人をいいと思うことは、おかしいことではない。
テレビに出ているアイドルのファン。つまり私に初めて推しができたと思う。
夫がそろそろ風呂から上がる。
寝室に隠れよう。
幸い寝室は優一の意向で別になっている。
優也がいてよかった。優也がいなかったら、私は即家出をしてしまっていたかもしれない。
この家族のことだから、結婚破棄したことに対して私の両親に慰謝料を請求するかもしれない。
理不尽な要求をする家族。そんな印象だ。
優一との出会いは、新卒で就職した会社が倒産して職安に通っていた時、優一に結婚しないかと言われた。
職安の職員との出会いは運命かもしれないかと思った。
今思うと、私の経歴とかを知って、結婚相手にちょうどいいと思っただけだったのかもしれない。
結婚前提の同居の毎日は楽しいものではなく、美しいものではなかった。
思い描いていた結婚生活と現実のギャップは思った以上にハードルが高い。
優也みたいな人、好きだな。
部屋で一人でぽわんとした気持ちに包まれる。
この気持ちが反則だということはわかっている。
それに全国に何万人のファンがいるのかも理解はしている。
ネットという便利な辞典が手のひらにある。
さっそく優也について調べてみる。
所属グループの公式サイトがなんだかキラキラしている。
ネットの世界をのぞくと優也がたくさんいた。
もちろん、テレビや雑誌などのメディアでの画像がでてくる。
メイクに決め顔。作り笑い。
家にいるときみたいなラフな格好でリラックスしている優也はいない。
ネットの中にいる彼は、一緒に住んでいる優也なんだよね。
再確認してみる。
舞台衣装で完璧メイクの姿が公式として紹介されている。
いつもに増して美しい。つい、拝んでしまう。
きっとこれが推しへの尊さなのかもしれない。
公式ファンクラブサイトでは、リーダーをやっているという優也推しが多い。
恋人とかいないのだろうかとエゴサしてみたが、どうやら安定の恋の噂すらない完璧アイドルとなっているらしい。
たしかに、誰にでも優しいし、恋愛より仕事なんだろうと思う。
筋トレとかストイックな生活はライブで体力使うんだろうなと動画を見て思った。
歌って踊って、それでも完璧に美しい。
こんな素敵な人と同居しているなんて。
そのためにもう少しだけここにいさせてもらおうかなんて思う。
夫は早朝から夜遅くまで勤務している。
だから、優也と二人の時間はたっぷりあった。
最近は昼間に仕事がなかったり、ドラマ撮影が終わって、少し時間があるらしい。
優一とは寝室は別だし、会話も何もない。
結婚までは寝室を別にしようという話だけど、この家は広いからずっと別なんだろうと思う。
一番日陰で奥の部屋が寝室となっている。
結婚する相手と日常会話もない。寂しい気持ちしかない。
子供も生まれないのならば、私は孤独と闘いながらこの家の一員として生活しなければいけない。
仕事をはじめようか? 私を雇ってくれるところがあるのだろうか?
家事の分担なんてあの人相手では無理だろう。家事をする様子を見たことがない。
もし、仕事をしたら家事との両立は難しい。それこそ自分の首を絞めることになるんじゃないだろうか?
今でも怒鳴られているのに、これ以上怒鳴られたら精神が持たないかもしれない。
「美菜さん、一緒に買い物に行かない?」
平日の昼間当たり前のように推しが誘ってくる。
自分の中で公認となった推しがお出かけに誘うとはどんな展開だろうか。平静を装う。
「どこに行くの?」
「食料品足りなくなってきたから。ついでに美味しいランチでもして帰らない?」
気楽な男だ。こんなのでは誤解を招いてしまう。焦って断る。
「だめです。あなたはアイドルなんです。誤解されるようなことはすぐネットで噂になります」
「だめなのか」
天然なのだろうか。それは、ご本人が一番わかっているのではと思うのだが。
「そりゃだめですよ。あなたは芸能人の男性で私は一般人の女性なんですから、誤解は申し訳ないです」
「気になっていた新しいパスタのお店があってさ。家族ならいいんじゃない? おごるよ」
「だめです!! 世間は家族じゃないほうが話題性があって面白いと記事に書いてしまうんです」
これは、ネットで女性の影ひとつない潔癖な印象を与えている彼に誤解を与える存在となってしまう。
もちろん私と恋人として不釣り合いだけど、ネットって面白おかしく書くでしょ。
だから、顔に線をつけて週刊誌が彼女とか書いたりするのがオチ。
好感度や印象は芸能人にとってとっても大事なことだ。
「残念だな。じゃあ、今日は家にあるもので作るから」
かっこいい。この人、全然優一に似ていない。優一は全くアイドル顔ではない。
でも、今まで一度もアイドルなどの芸能人を好きになったとかそういうことはない。
目の前にいるせいで、予想外の推し活生活が始まるなんて。
心のときめきが止まらない。
「兄さん美菜さんに優しくしてる? 普段厳しいから、二人だけの時はめちゃくちゃ優しいとかさ」
屈託のない笑顔だ。
「それはないです。二人きりでも、いつもイライラしていて、距離がありますよ」
「じゃあ、手をつないだりは?」
「手つなぎもしたことがなくって」
「それは重症だな。俺も生まれてこの方ずっと彼女いないけど」
それは事務所が恋愛に厳しいだけで、普通にしていたらどんだけの女性に告白されるかわかったもんじゃない。
「めっちゃもったいないよな。こんなかわいくて優しいお嫁さんがいたら、俺なら毎晩ラブラブなのに」
冗談だよね? 私が勝手に頬が赤くなる。彼のにこやかな瞳に汚れや嘘はないようだ。
優也は天然で、計算高くない。純粋に何でも言ってくれる。
ある意味ボランティア精神の塊の人なんだろう。
恋愛とかそういう感情抜きの家族愛みたいな。
でも、推しにそういうことを言われたら、普通幸せだけど動揺するよね。
こっちは勝手に動揺しまくりなんだけど。
一応社交辞令に応えてみよう。
「私も優也くんみたいな人と結婚したかったですよ」
「またまたぁ。美菜さんみたいな素敵な女性に言われると照れるな」
にこりとされるとハートが撃ち抜かれる。
またもや社交辞令では??
それはそうだよね。
きっとアイドルだから、ファンに優しくする癖がついちゃってるんだ。
きっとそうだ。
少年のようなあどけない優也はかわいい。
素直に正直にかわいい。
かわいいとかっこいいを何百回言っても足りないくらいの想いがある。
全国の世の女性を虜にしている人が目の前にいるだけで心臓がばくばくなんだけど。
女性の心を無意識にもてあそぶタイプなんだろう。
本人は全く気がないのに、女性が勘違いしちゃうやつだ。
「レモンパスタ作るね」
当たり前のようにエプロンをして調理を始めている。
「私が作ります」
申し訳なく思う。
「いつもこの家でこき使われいるんだから、たまには息抜きして。俺、料理好きだし」
ありあわせのもので作っているはずなのに、既製品のような美しいパスタが出来上がる。
彼の料理の腕は料理番組にも出演しており、本格的な指導を受けているらしい。
手際が良く、まるでシェフのよう。
うっとり見入る。
でも、推しの自宅での料理姿を見たり、パスタを作ってもらえるなんて、ファンとして一体どのくらいお金を払えばいいのだろう。
推し活はお金がかかるとネットに書いてあった。
私、無職ですが。どうしようと急に焦る。
あっという間にできたさっぱり風味のレモンパスタ。
美しさを重視したパスタの色合いが食欲をそそる。
目の前には推しがにこにこして目が合う。
私、とっても贅沢な生活送ってませんかね。
「ネトフリで映画でも見ない?」
「もしかして優也君主演の恋愛映画?」
「自分の疑似恋愛を見るのって照れるよ。本当は好きじゃない人と恋愛のお芝居するわけだし」
主演女優はあの美人かつかわいいカンナちゃんでは。
ネットで調査済み。
推しと自覚した時点で結構検索したので、基本情報は全てインプット済み。
情報収集はお手の物よ。とはいっても婚約者の情報はネットにないし、本質を結局理解できない。
「ホラー系苦手ではない? 俺の友達が主演なんだよね」
「感想求められてたんだけどちゃんと観てなくて」
そうか。映画を観る時間がなくて、今日時間があるからとりえあえず暇そうな私を誘ったってことかな。
スマホよりリビングの大画面で観たほうが良く観れるし。
「一緒に見る?」
「お一人のほうが集中できるのでは?」
「実はホラーって苦手で、誰かがいると助かるんだけど」
そのパターン来たかぁ。
ホラーが苦手だけど、一番暇かつ誘いやすい人材が私だったということか。
推しの願いを聞くのはファンの務め。
「私でよければ」
私たちはこの短い期間で、家族としてというか、いつのまにか仲良くなった。
密かに推しとして応援しているだけの義理の弟になる人。婚約破棄したら、きっともう会うことも話すこともなくなるのかなと思う。
推しとしては、親族でいたいけど、DVモラハラ男と結婚というのはちょっときついような。
どっちの道を選択しても地獄だなと思う。
よく考えたら私、ホラー苦手だった。
あまりにも推しと観れると盛り上がっていたけど、ものすごく苦手だったことに気づく。
一緒に鑑賞する。音響も映像も怖いと思い、つい、彼のTシャツをつかむ。
「大丈夫だよ」
ホラーの音響の中に優しいイケメンが。
これは神様のくれたご褒美でいいのでしょうか。
勝手にそう解釈させていただきます。
ずっと彼氏などいなかった私に推しと同居という極上の喜びを味合わせてくれたご褒美。
結構距離が近い。これって、やっぱり迷惑かな。
少し離れる。
これって恋人みたいだよね。見つかったらまずいよね。
心の中でうざいって思われないように離れよう。
私は何もしていない。キスもしていない。体を重ねてもいない。浮気じゃないよ。
「やっぱりこんなに俺の近くにいるなんて嫌だよね。近すぎてごめんね」
なんかわかんないけど、少し離れたら謝られてしまった。
私が嫌だと思ってしまったのだろうか。
そんなわけあるわけないのに。
私のほうが優也君に対して申し訳なくて少しばかり離れただけなんだけど。
嫌ってるとかそういうんじゃないんだけど。
「すみません。ファンの方々に申し訳なくなってしまって」
だって、自分がファンだったら嫌だと思うから。
推しが女性とこんなに近くで映画見てるとか、絶対嫌だもん。
ホラーの音響が鳴り響く中、急に優也が真面目な顔で話す。
もう、全然ホラーの映画観てない。
これじゃあ感想を言えないのではと心配になる。
「美菜さんのことずっと気になっていた。初めて見た時から、こんな人が俺の彼女だったらいいなって。かわいいなって。兄が羨ましかった。だから、今までは滅多に帰宅しなかったけど、この家に住むようになったんだ。兄は美菜さんに優しくするとは思えなかったし。恋心を隠していないとだめなのに、告白してしまったな」
「えっ? 今幻聴が聞こえてしまったようです。あなたを推しとして認定したうえで接していたら、都合の良い恋愛漫画のような展開を
望んでしまっているようなんですけど。今見ているのはホラー映画でいいですよね」
とんちんかんな答えをしてしまった。
にこりと優也は微笑む。
「幻聴ではないよ。いつも一生懸命家事をやっている姿を見て、素敵な女性だなって思っていたよ」
「周囲にもっと素敵な芸能人の女性がいると思うんですけど」
さすがにドッキリではないだろうか。
カメラを探す。
「人を好きになるということは理屈ではないからさ。好きな気持ちを隠すことって難しいな」
「いえ、私は目が大きいとか小顔でもないし、顔立ちが整った美人ではないですよ」
「誰が美人じゃないって言ったの? 俺が抗議するよ」
本当に美人だと思っているのだろうか?
だって私はスカウトされるような男子にモテるようなそんな人間じゃないのに。
「でも、不倫とか浮気って優一さんや親御さんに怒られてしまいます」
「結婚してないから不倫ではないよ。それに、あんなひどいことをされていたら、婚約破棄して当然だと思うけど」
「でも、それで、推しであるあなたとどうこうするなんてあなたと優一さんの親が怒りますよ」
少し重い空気が私たちを包んだ。
彼はゆっくり話し始めた。
「俺、ここの家の本当の子供じゃないんだ。両親が子供の頃に死んでしまって。遠い親戚の子供。しかも隠し子なんだ。だから、全然顔立ち似てないでしょ。アイドル時代にかなり稼いだからこの家にはだいぶ生活費として入れてきた。アイドルというより今後は俳優とか映画を作るような仕事もしたい。そして、学習塾を経営したいとも思ってる。貯めたお金でこれから芸能以外の仕事もやっていきたいと思ってる。誰も自分で稼いだお金に文句はつけられないだろ。美菜さんは死んだ母さんにどこか似ている気がして。なんだか気になってしまって……」
突然の重い話。この人は不自由な生活をずっとしてきたんだ。
ずっと一人だったんだ。さびしかったんだ。
涙があふれそうになった。
「今、俺がこの家に滞在しているのは、美菜さんがいるからなんだよ。芸能事務所が部屋を借りてくれてるから本来はそっちで生活してたんだ。実の子供じゃないからさ」
耳元でささやかれる甘いボイスが心をくすぐる。こんなことがあるわけがない。夢か何かかもしれない。
でも、優也はずっと私に対して優しかったし、責めるようなことはしなかった。
優一とは違う顔立ちの整った彼が私の瞳を見つめてくれる。自然と体が火照る。
推しと両思いになってるってことなのかな。
贅沢な時間に体は自然と反応する。
ドキドキしている音は聞こえているかもしれない。
でも、彼からもドキドキしている音が聞こえるような気がする。
こんなに近くにいたら、きっと聞こえる。
「私の人生初の推しは、アイドルの優也君です。でも、それは推しであって、リアルにどうこうとは思ってなくて」
「大丈夫。俺のことが嫌いじゃないなら婚約は破棄してほしい。あんな生活嫌だろ。俺もこの家族とは縁を切って美菜さんと一緒にやっていきたい。だって、俺の金目当ての家族なんて本当の家族じゃないから」
金目当ての家族。そんな中で彼は生きてきた。私なんかのためにこの家に住んでくれたんだ。
「……はい。私でよければお供します」
お供って、桃太郎のキジとか猿みたいな感じだけど、こんな言葉しか思いつかない。
恋愛初心者の推し活初心者がその相手とどうこうなるなんて、普通ありえないわけで。
一番うれしいのは、思いやりの会話があること。
人間として、女性として扱ってもらえている事だ。
夜になると家族が帰宅し、厳格な重い空気が走る。
なんで、この家の人はこんなに誰かを警戒しているのだろう。
誰かというのはわからないけれど、世間なのかもしれないし、身内なのかもしれない。
優しい穏やかな空気はこの家庭には無縁だった。
優也のことは息子なのにどこか距離を感じているような家族だったのはそんな理由があったからなのか。
勇気を出して優一の両親に言う。
「やっぱり、結婚のことはなかったことにしてください」
「まぁ、どうしたの美菜さん。もう式場も抑えてるし、みなさんに招待状も送ったのに」
義母は世間体の塊だ。
「冷たい家族と一緒に生活することはできないです。優一さんはモラハラにDVがあり、私は結婚できません。それならば、新しい仕事を探します」
「まぁ、失礼な人ね。いつ、優一があなたに暴力をしたというの? 同居していて親切にしていたのに恩を仇で返すつもり?」
お義母さんは本当にそう思っていたようだ。
「そうだよ。世間が婚約破棄を許さない。これが現実だよ」
お義父さんもずいぶんと冷たい。世間体が全てなんだ。
「俺が美菜さんを引き受けることにしたよ」
「はぁ?」
優一をはじめ義理の父母が驚いた顔をする。
「だって、あなたはアイドルなのよ。スキャンダルはダメな仕事でしょ。収入が減ったらどうするのよ」
義母が慌てた顔で言う。
「近々卒業する予定だし、グループも解散の方向になっているんだ」
「でも、ファンが怒って芸能の仕事はなくなってしまうかもしれないぞ」
義父も怒っている。
「だから、俺、俳優やりながら違う仕事もやろうと思ってる。映画を撮る側になる仕事。そして、塾の経営も考えているんだ」
塾の経営は優也の生きてきた道とは全然違う。でも、慶明卒の芸能人がやっている塾なんて人気がありそう。
「塾はリモートで全国の人に届けるし、家庭教師もネットを通してできる。人材のコネもたくさんあるからね。もう、彼女をいじめるようなことは許さない」
「まて、まだ俺の婚約者だ」
優一が焦る。
「ここで、結婚はなかったことにさせてください」
二人で頭を下げた。
「優也。おまえは親戚の子供だ。つまり義理の子供。だから、容姿は我々には似ていない。でも、幼少期からお金になるから芸能人の親としておまえを育ててきた。芸能人が身内にいるのはいいかと思ったが。デメリットしかない者には出ていってもらうしかない」
はっきりと言い切る義理の父親。
それからは、式場のキャンセルに親への説明に招待客への連絡。
式自体は少し先だったからなんとかなったけど、決められたドレスを着て決められた式場で結婚する予定になっていた。
ここには私の意志は反映されていなかった。
そして、アイドルと同居からの推しと両想いというすごい生活が始まった。
「全部好きだな。声も仕草も全部好き。美菜ってすごくいいんだよね」
最初からずっと優也は怒ったりしないし、一番に思ってくれる。
大切にしてくれる。みんなの優也が私の隣にいる。
「改めて聞くけど、私でよかったのかな」
ストレートの長い髪の毛を耳にかけながら問いかけた。
優也は優しい声で耳元でささやいた。
「すごく幸せだよ」
「最初、美菜を紹介されて、美菜の扱いががひどくて放っておけなかった。だから、実家暮らしに切り替えたんだ。美菜は一生懸命やっているのに、親も兄も辛い言い方をするからさ。最初は同情からはじまったのは事実だよ。でも、すごく心根が優しくて、芸能人にはいない普通の女性だった。だから、本気になった。たとえ、世界中を敵に回しても俺は美菜を守り抜く。だから、一緒になろう」
真剣なまなざし。
世界中の女性を本当に敵にしてしまうんじゃないだろうか。
明日死んでしまってもおかしくないくらい運を使い果たしたような気がする。
「私、一生懸命尽くすので、今後ともよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
目の前にはドームをいっぱいにできるくらいファンのいるアイドルがいる。
彼はどう間違えたのか私がいいと言ってくれる。
もし、気の迷いでもその言葉を受け取ろうと思えるようになった。
国民的アイドルに、今、私は愛されているんだ。
DVとかモラハラとは無縁の優しい人と一緒にいることができる。
彼は美しい顔をしているけど、感情の起伏が乏しい。
両親がいなかったからなのだろうか。あまり表情が豊かではない。
両親が死んでしまいお金のために芸能活動をしていた。
でも、ちゃんと彼の通帳に貯金されたお金は大学の学費に使ったくらいで、ほとんど残っていた。
契約の時に事務所が管理するという約束で活動を始めたらしい。
家族が管理をしたら大変なことになることは目に見えていたかららしい。
「芸能人のファンは外見だけで好きになってくれてる人が多いんだよね。俺の外見が変わっても老けても嫌いにならない?」
不安げな優也。
「ならないですよ。だって、健やかなるときも病める時も永遠の愛を誓いますかって聞かれるものでしょ」
「俺は美菜のおかげで独りぼっちじゃなくなった。もちろん誓うにきまってるよ。重いって思われるかもしれないけど、付き合うならずっと一途に愛したいから」
これは、普通の女性の普通ではない物語。
一人ぼっちだったアイドル男性が初めて人を好きになった物語。
少しずつ優也の表情の変化が見えてくるようになってきた。
私の隣で泣いたり笑ったり怒ったりする彼はもう私なしでは生きられないと言ってくれる。
私も、もう彼無しでは生きられないと思える。
だって、大好きだから。
「もう一度聞きます。本当に私なんかでいいのでしょうか?」
「美菜以外だめだから。ネガティブ発言禁止ね」
「もし、優也君がネガティブな気持ちになったら、必ず私に言ってください」
その瞬間ふわりと抱き寄せられる。
「我慢できない。キスしていいかな?」
「私なんかで……」
言葉の途中で唇が重なる。
もうネガティブ発言は唇がふさがれてできなかった。
唇が重なる瞬間心も体も私たちは重なった。
もう、私なんかでなんて思わない。
彼の心からの笑顔を見て、私のネガティブは消失していた。
人生何が起こるかわからない。この一言に尽きる。
旦那となる人は厳格でモラハラ体質だ。DV要素も持ち合わせている。こんなに結婚生活がバラ色の反対色だなんて思わなかった。
でも、結婚式の招待状とか結納とかどんどん話が進んでしまい、どんどんひどくなるモラハラの中、断るタイミングを逃していた。
義理の父母は仕事熱心な昔ながらの男尊女卑気質。
この家は、昭和で時が止まっている。
世間体とか、そんな上辺で一目ばかり気にしている一家だということに気づいたのは結婚する直前だった。
入籍という箱は甘くはない。簡単に足を突っ込んだらぬけられるものではないのだ。まさに蟻地獄。
足を引っ張られ抜け出すことができない。
断るにも両家賛成で簡単なことでもない。
交際相手は家柄がいいため、私の親は常に頭を下げて一歩下がっているような感じだ。
婚約者の両親は彼の暴言を見て見ぬふり。気が早い義理の両親は、結婚式をすると皆に招待状を送ってしまった。
結婚という名で息子を一人前にしたい。それは、孫という跡取りを作るためという感じだ。
息子が大事なため、どんなに息子が間違っていても悪いのは私だ。息子が間違っているはずはない。そんなことを平気で言う人間だ。
婚約者の家庭で結婚前提に義理の親と暮らすようになって、人間として扱われていない自分の居場所のなさに時々涙が流れた。
でも、誰にも知られないようにこっそり泣いていた。
実家にも頼れない。もう、事実婚状態。
入籍はかろうじてしていない今、どう断ろう。相談する友達もいないし、婚約者の優一は外部との連絡を絶とうとする。
この家に唯一、価値観が自由で陽気な男がいる。夫の弟の優也だ。私の将来的な義理の弟である。
次男坊らしい甘えっこで、いつも笑顔。本当に私の夫、優一の実の弟なのだろうか。
顔立ちも似ていない。優一は昭和顔。優也は令和顔。なんとなく時代が違う顔立ち。
優一が服を母親に買ってもらうような、無頓着な人間というのもあるのかもしれない。
それに比べて優也はアイドルをやっている芸能事務所に所属していて、常にファッションに気を使っている。
私自身アイドルとか芸能人に疎いため、どんな活動をしているとかどんなグループにいるのかは知らない。
でも、国民的に有名なアイドルということは認識していた。
化粧水も超高級なものを使っているようで、肌の手入れにこだわりがあるおしゃれ男子らしい。
収入もいいし、外見で飯を食っているような人だからそれも仕事のうちなのかもしれない。
私よりもずっと肌のきめが細やかで透き通るような色白だ。
髪の毛もシャンプーやトリートメントも自分専用の美容室でしか手に入らないような高級感のあるボトル。
ボディーソープも自分だけの肌にいいものを使っており、普通に売っているものとは一味違う。
優也からはいつもいい匂いがする。
笑顔も極上で、唯一の癒しだ。
今は同居しており、正式に入籍するまで、婚約者の実家で義理の両親と生活をしている。
これは、私に嫁としての作法を教えるとか慣れてもらいたいという計らいらしいが、ただのいじめにしか感じない。
もう、結婚式場も抑えているし、招待状も送っているけど、この結婚は今すぐ辞めるべきじゃないだろうか。
でも、世間体を気にする親たちが簡単に納得するとも思えない。
優一はきっと何でも言うことを聞いてくれるおとなしい女性を選んだだけ。
好きという感情はそこには存在していないことを感じている。
優也は男子厨房に立たずなんていう家風とは真逆で、積極的に好きなもの、食べたいものを自分作り、もてなしてくれる。
この家で唯一自由に笑顔をふりまく心も見た目も美しい男性だ。
二十三歳で有名な偏差値の高い慶明大学を卒業して、芸能活動をしているとか。
詳しいことはしらないが、地方公演や泊りの仕事が多く、時々実家に帰ってくると聞いていた。
優也という人間はこの家にはとても珍しいタイプで世間の価値観に縛られることはなく、自然体で生きている。
就職も将来も何も心配なく好きなことをしているように思う。
「美菜さん、一緒に食べない? 俺のスペシャルランチ」
にこやかに笑う顔は歳よりもずっと幼い。昼間はふたりきりなので、同じ歳ということもあり、同級生みたいな距離感だ。
私自身も大学を卒業したばかりの二十三歳。
現役生アイドルは目の前にいるとオーラが違う。
顔面偏差値はもちろん、育ちがいいのがにじみ出ており、ひとつひとつの動作がきれいだ。
「優也君、料理上手だよね」
昼間の時間帯は優一は仕事で自宅にいないし、両親も仕事だ。義理の両親は会社を経営しており、夫は公務員であり職安で働いている。それなのに、この優也という男は、好きなことをして生きている。よく、許されたものだ。将来の不安とかはないのだろうか?
昨晩の記憶――
「美菜、おまえがしっかりしていないから俺の探している本がなくなるんだ。専業主婦なら、きっちり掃除しろ。それに、生焼けの魚を俺に出すなんて嫌がらせか」
まだ正式に主婦じゃないけど、家政婦扱い。
完璧主義の婚約者に怒られてばかりの日々。私は全く出来の悪い女だ。
罵倒されるのは日常茶飯事。インテリジェンスで学生時代は優等生だっただろう未来の夫。
まさかこんなに激昂するような人間だと思わなかった。
外で会う時はいつもにこやかで、物腰は穏やか。だから、結婚を約束した。
世間からはいい人と思われているであろう理想的な人間。
誰も本当のことなんて信じてくれない。
あの人の本当って何? 真実の姿って何?
なんでこんなに苦しいの?
涙が流れる。辛い。
優一は風呂に入ると言っていなくなり、両親は外食してくるため、不在だ。
「涙、拭きなよ。昔から兄は気難しいんだよ」
優也は優しい。相当なお金を稼いでいるのに威張ることもしない。
有名人なのに気取ることもしない。
ただ、優しい。顔だけがいいだけだと思っていたけど、性格もいい。
タオルハンカチに心が癒される。
「ねえ、美菜さんは兄のどこを好きになったの?」
「真面目で優しい所」
即答だ。でも、優しいというのは違う。
みんなの前では優しいというところというのが正解かな。
「たしかに兄は生真面目だけど、完璧主義だから家族としては面倒なタイプなんだよね。それに、優しいっていうのは表向きで昔から家族には結構冷たかったんだよね。俺は異端児だから、特に塩対応だったんだよ」
「本当に真面目で優しい人なのか、今になってわからなくなったなぁ」
涙はなかなか止まらない。
「美菜さんの料理、俺は好きだな。料理初心者で、不器用ながら一生懸命栄養バランスと見た目を意識して作ってるでしょ」
胸がきゅんとなる。こんな気持ちはいつぶりだろう?
屈託のない笑みに癒された。温泉に行って、ほっこりした気分、そんな感じだ。
子猫のような甘え上手な弟君。髪の毛をくしゃくしゃにして撫でまわしたくなる。こういうのを損得を問わない純愛というのだろうか?
相手の地位や学歴や職業ではなく、直感で好きだと思える事。
本能が勝手にうずくこと。
まぁ、相手は芸能人。どの女性も同じ気持ちになるだろう。
優也は目の前のかわいそうな人を放っておけないだけ。
だって、私はアイドルや女優のような美しい容姿ではない。
料理も下手。自分のいいところが思いつかない。
瞳が大きく、優也の髪の毛は金髪でこの家では異端児だ。顔立ちは長男と両親が似ており、優也だけ別の顔立ちだ。
祖父母似なのかもしれない。
「美菜さんって、彼氏とか結構いたの?」
私なんかの料理を優一が食べ残した残り物を天下のアイドルが食べてる。しかも、嫌な顔ひとつせず。
この人、めちゃくちゃ性格がいいんだな。
逆に申し訳ないな。私なんかの料理なんか食べさせてしまって。食事とかカロリーを気を付けていそうなのに。
私なんかの恋愛に興味あるわけないのに、気を使って場をつなげているのかな。
私がここにいる存在自体申し訳なさ極まりない。
「彼氏なんて全然いないですよ」
「やっぱり兄みたいな男が好きなの?」
「そういうわけじゃないよ。私のことを好きだと言ってくれれば好きになると思うけど」
「好きになってくれた人が好きな人ってこと?」
「アイドルやってる優也君に私の恋愛価値観なんて話してしまうなんて。申し訳ないです」
「申し訳なんかなくないよ。俺、美菜さんの恋バナ聞きたかったし」
彼は、気を使っている様子もなく、普通に話してくれている。そんな彼の声は私に心地よく響く。
久しぶりだ。誰かとこんなに楽しいと思いながら話をしたのは。
モラハラではない扱いを受けたのはいつぶりだろう。人間として、一人の女性として扱われた。そんなちっぽけなことが嬉しい。
嫁としての役割とか、世間体今はない普通の会話。
こんなに心地よく幸せなんだな。世の中の女性はこんな気持ちで恋人と付き合っているのだろうか。
ほとんど恋愛経験のない私にはわからないことばかりだ。
こんな気持ちになっているなんてアイドルの優也とファンたちに申し訳ないなと思う。
「いつまで、優也君はここにいるんですか?」
「美菜さんがいるなら、一人暮らしするの辞めようかな」
「私のことが心配って思ってくれてるんですか。ありがとうございます」
「うちの家族、意地悪だからね。いざとなったら助けるから」
国民的アイドルが私ごときを助けるとか言ってるんですけど。なんだか気を使わせてしまっている。
優也に裏はなさそうで少し安心した。
今、優也のファンになってしまった自分がいた。きっとこの人のファンは全国各地にいる。
芸能人をいいと思うことは、おかしいことではない。
テレビに出ているアイドルのファン。つまり私に初めて推しができたと思う。
夫がそろそろ風呂から上がる。
寝室に隠れよう。
幸い寝室は優一の意向で別になっている。
優也がいてよかった。優也がいなかったら、私は即家出をしてしまっていたかもしれない。
この家族のことだから、結婚破棄したことに対して私の両親に慰謝料を請求するかもしれない。
理不尽な要求をする家族。そんな印象だ。
優一との出会いは、新卒で就職した会社が倒産して職安に通っていた時、優一に結婚しないかと言われた。
職安の職員との出会いは運命かもしれないかと思った。
今思うと、私の経歴とかを知って、結婚相手にちょうどいいと思っただけだったのかもしれない。
結婚前提の同居の毎日は楽しいものではなく、美しいものではなかった。
思い描いていた結婚生活と現実のギャップは思った以上にハードルが高い。
優也みたいな人、好きだな。
部屋で一人でぽわんとした気持ちに包まれる。
この気持ちが反則だということはわかっている。
それに全国に何万人のファンがいるのかも理解はしている。
ネットという便利な辞典が手のひらにある。
さっそく優也について調べてみる。
所属グループの公式サイトがなんだかキラキラしている。
ネットの世界をのぞくと優也がたくさんいた。
もちろん、テレビや雑誌などのメディアでの画像がでてくる。
メイクに決め顔。作り笑い。
家にいるときみたいなラフな格好でリラックスしている優也はいない。
ネットの中にいる彼は、一緒に住んでいる優也なんだよね。
再確認してみる。
舞台衣装で完璧メイクの姿が公式として紹介されている。
いつもに増して美しい。つい、拝んでしまう。
きっとこれが推しへの尊さなのかもしれない。
公式ファンクラブサイトでは、リーダーをやっているという優也推しが多い。
恋人とかいないのだろうかとエゴサしてみたが、どうやら安定の恋の噂すらない完璧アイドルとなっているらしい。
たしかに、誰にでも優しいし、恋愛より仕事なんだろうと思う。
筋トレとかストイックな生活はライブで体力使うんだろうなと動画を見て思った。
歌って踊って、それでも完璧に美しい。
こんな素敵な人と同居しているなんて。
そのためにもう少しだけここにいさせてもらおうかなんて思う。
夫は早朝から夜遅くまで勤務している。
だから、優也と二人の時間はたっぷりあった。
最近は昼間に仕事がなかったり、ドラマ撮影が終わって、少し時間があるらしい。
優一とは寝室は別だし、会話も何もない。
結婚までは寝室を別にしようという話だけど、この家は広いからずっと別なんだろうと思う。
一番日陰で奥の部屋が寝室となっている。
結婚する相手と日常会話もない。寂しい気持ちしかない。
子供も生まれないのならば、私は孤独と闘いながらこの家の一員として生活しなければいけない。
仕事をはじめようか? 私を雇ってくれるところがあるのだろうか?
家事の分担なんてあの人相手では無理だろう。家事をする様子を見たことがない。
もし、仕事をしたら家事との両立は難しい。それこそ自分の首を絞めることになるんじゃないだろうか?
今でも怒鳴られているのに、これ以上怒鳴られたら精神が持たないかもしれない。
「美菜さん、一緒に買い物に行かない?」
平日の昼間当たり前のように推しが誘ってくる。
自分の中で公認となった推しがお出かけに誘うとはどんな展開だろうか。平静を装う。
「どこに行くの?」
「食料品足りなくなってきたから。ついでに美味しいランチでもして帰らない?」
気楽な男だ。こんなのでは誤解を招いてしまう。焦って断る。
「だめです。あなたはアイドルなんです。誤解されるようなことはすぐネットで噂になります」
「だめなのか」
天然なのだろうか。それは、ご本人が一番わかっているのではと思うのだが。
「そりゃだめですよ。あなたは芸能人の男性で私は一般人の女性なんですから、誤解は申し訳ないです」
「気になっていた新しいパスタのお店があってさ。家族ならいいんじゃない? おごるよ」
「だめです!! 世間は家族じゃないほうが話題性があって面白いと記事に書いてしまうんです」
これは、ネットで女性の影ひとつない潔癖な印象を与えている彼に誤解を与える存在となってしまう。
もちろん私と恋人として不釣り合いだけど、ネットって面白おかしく書くでしょ。
だから、顔に線をつけて週刊誌が彼女とか書いたりするのがオチ。
好感度や印象は芸能人にとってとっても大事なことだ。
「残念だな。じゃあ、今日は家にあるもので作るから」
かっこいい。この人、全然優一に似ていない。優一は全くアイドル顔ではない。
でも、今まで一度もアイドルなどの芸能人を好きになったとかそういうことはない。
目の前にいるせいで、予想外の推し活生活が始まるなんて。
心のときめきが止まらない。
「兄さん美菜さんに優しくしてる? 普段厳しいから、二人だけの時はめちゃくちゃ優しいとかさ」
屈託のない笑顔だ。
「それはないです。二人きりでも、いつもイライラしていて、距離がありますよ」
「じゃあ、手をつないだりは?」
「手つなぎもしたことがなくって」
「それは重症だな。俺も生まれてこの方ずっと彼女いないけど」
それは事務所が恋愛に厳しいだけで、普通にしていたらどんだけの女性に告白されるかわかったもんじゃない。
「めっちゃもったいないよな。こんなかわいくて優しいお嫁さんがいたら、俺なら毎晩ラブラブなのに」
冗談だよね? 私が勝手に頬が赤くなる。彼のにこやかな瞳に汚れや嘘はないようだ。
優也は天然で、計算高くない。純粋に何でも言ってくれる。
ある意味ボランティア精神の塊の人なんだろう。
恋愛とかそういう感情抜きの家族愛みたいな。
でも、推しにそういうことを言われたら、普通幸せだけど動揺するよね。
こっちは勝手に動揺しまくりなんだけど。
一応社交辞令に応えてみよう。
「私も優也くんみたいな人と結婚したかったですよ」
「またまたぁ。美菜さんみたいな素敵な女性に言われると照れるな」
にこりとされるとハートが撃ち抜かれる。
またもや社交辞令では??
それはそうだよね。
きっとアイドルだから、ファンに優しくする癖がついちゃってるんだ。
きっとそうだ。
少年のようなあどけない優也はかわいい。
素直に正直にかわいい。
かわいいとかっこいいを何百回言っても足りないくらいの想いがある。
全国の世の女性を虜にしている人が目の前にいるだけで心臓がばくばくなんだけど。
女性の心を無意識にもてあそぶタイプなんだろう。
本人は全く気がないのに、女性が勘違いしちゃうやつだ。
「レモンパスタ作るね」
当たり前のようにエプロンをして調理を始めている。
「私が作ります」
申し訳なく思う。
「いつもこの家でこき使われいるんだから、たまには息抜きして。俺、料理好きだし」
ありあわせのもので作っているはずなのに、既製品のような美しいパスタが出来上がる。
彼の料理の腕は料理番組にも出演しており、本格的な指導を受けているらしい。
手際が良く、まるでシェフのよう。
うっとり見入る。
でも、推しの自宅での料理姿を見たり、パスタを作ってもらえるなんて、ファンとして一体どのくらいお金を払えばいいのだろう。
推し活はお金がかかるとネットに書いてあった。
私、無職ですが。どうしようと急に焦る。
あっという間にできたさっぱり風味のレモンパスタ。
美しさを重視したパスタの色合いが食欲をそそる。
目の前には推しがにこにこして目が合う。
私、とっても贅沢な生活送ってませんかね。
「ネトフリで映画でも見ない?」
「もしかして優也君主演の恋愛映画?」
「自分の疑似恋愛を見るのって照れるよ。本当は好きじゃない人と恋愛のお芝居するわけだし」
主演女優はあの美人かつかわいいカンナちゃんでは。
ネットで調査済み。
推しと自覚した時点で結構検索したので、基本情報は全てインプット済み。
情報収集はお手の物よ。とはいっても婚約者の情報はネットにないし、本質を結局理解できない。
「ホラー系苦手ではない? 俺の友達が主演なんだよね」
「感想求められてたんだけどちゃんと観てなくて」
そうか。映画を観る時間がなくて、今日時間があるからとりえあえず暇そうな私を誘ったってことかな。
スマホよりリビングの大画面で観たほうが良く観れるし。
「一緒に見る?」
「お一人のほうが集中できるのでは?」
「実はホラーって苦手で、誰かがいると助かるんだけど」
そのパターン来たかぁ。
ホラーが苦手だけど、一番暇かつ誘いやすい人材が私だったということか。
推しの願いを聞くのはファンの務め。
「私でよければ」
私たちはこの短い期間で、家族としてというか、いつのまにか仲良くなった。
密かに推しとして応援しているだけの義理の弟になる人。婚約破棄したら、きっともう会うことも話すこともなくなるのかなと思う。
推しとしては、親族でいたいけど、DVモラハラ男と結婚というのはちょっときついような。
どっちの道を選択しても地獄だなと思う。
よく考えたら私、ホラー苦手だった。
あまりにも推しと観れると盛り上がっていたけど、ものすごく苦手だったことに気づく。
一緒に鑑賞する。音響も映像も怖いと思い、つい、彼のTシャツをつかむ。
「大丈夫だよ」
ホラーの音響の中に優しいイケメンが。
これは神様のくれたご褒美でいいのでしょうか。
勝手にそう解釈させていただきます。
ずっと彼氏などいなかった私に推しと同居という極上の喜びを味合わせてくれたご褒美。
結構距離が近い。これって、やっぱり迷惑かな。
少し離れる。
これって恋人みたいだよね。見つかったらまずいよね。
心の中でうざいって思われないように離れよう。
私は何もしていない。キスもしていない。体を重ねてもいない。浮気じゃないよ。
「やっぱりこんなに俺の近くにいるなんて嫌だよね。近すぎてごめんね」
なんかわかんないけど、少し離れたら謝られてしまった。
私が嫌だと思ってしまったのだろうか。
そんなわけあるわけないのに。
私のほうが優也君に対して申し訳なくて少しばかり離れただけなんだけど。
嫌ってるとかそういうんじゃないんだけど。
「すみません。ファンの方々に申し訳なくなってしまって」
だって、自分がファンだったら嫌だと思うから。
推しが女性とこんなに近くで映画見てるとか、絶対嫌だもん。
ホラーの音響が鳴り響く中、急に優也が真面目な顔で話す。
もう、全然ホラーの映画観てない。
これじゃあ感想を言えないのではと心配になる。
「美菜さんのことずっと気になっていた。初めて見た時から、こんな人が俺の彼女だったらいいなって。かわいいなって。兄が羨ましかった。だから、今までは滅多に帰宅しなかったけど、この家に住むようになったんだ。兄は美菜さんに優しくするとは思えなかったし。恋心を隠していないとだめなのに、告白してしまったな」
「えっ? 今幻聴が聞こえてしまったようです。あなたを推しとして認定したうえで接していたら、都合の良い恋愛漫画のような展開を
望んでしまっているようなんですけど。今見ているのはホラー映画でいいですよね」
とんちんかんな答えをしてしまった。
にこりと優也は微笑む。
「幻聴ではないよ。いつも一生懸命家事をやっている姿を見て、素敵な女性だなって思っていたよ」
「周囲にもっと素敵な芸能人の女性がいると思うんですけど」
さすがにドッキリではないだろうか。
カメラを探す。
「人を好きになるということは理屈ではないからさ。好きな気持ちを隠すことって難しいな」
「いえ、私は目が大きいとか小顔でもないし、顔立ちが整った美人ではないですよ」
「誰が美人じゃないって言ったの? 俺が抗議するよ」
本当に美人だと思っているのだろうか?
だって私はスカウトされるような男子にモテるようなそんな人間じゃないのに。
「でも、不倫とか浮気って優一さんや親御さんに怒られてしまいます」
「結婚してないから不倫ではないよ。それに、あんなひどいことをされていたら、婚約破棄して当然だと思うけど」
「でも、それで、推しであるあなたとどうこうするなんてあなたと優一さんの親が怒りますよ」
少し重い空気が私たちを包んだ。
彼はゆっくり話し始めた。
「俺、ここの家の本当の子供じゃないんだ。両親が子供の頃に死んでしまって。遠い親戚の子供。しかも隠し子なんだ。だから、全然顔立ち似てないでしょ。アイドル時代にかなり稼いだからこの家にはだいぶ生活費として入れてきた。アイドルというより今後は俳優とか映画を作るような仕事もしたい。そして、学習塾を経営したいとも思ってる。貯めたお金でこれから芸能以外の仕事もやっていきたいと思ってる。誰も自分で稼いだお金に文句はつけられないだろ。美菜さんは死んだ母さんにどこか似ている気がして。なんだか気になってしまって……」
突然の重い話。この人は不自由な生活をずっとしてきたんだ。
ずっと一人だったんだ。さびしかったんだ。
涙があふれそうになった。
「今、俺がこの家に滞在しているのは、美菜さんがいるからなんだよ。芸能事務所が部屋を借りてくれてるから本来はそっちで生活してたんだ。実の子供じゃないからさ」
耳元でささやかれる甘いボイスが心をくすぐる。こんなことがあるわけがない。夢か何かかもしれない。
でも、優也はずっと私に対して優しかったし、責めるようなことはしなかった。
優一とは違う顔立ちの整った彼が私の瞳を見つめてくれる。自然と体が火照る。
推しと両思いになってるってことなのかな。
贅沢な時間に体は自然と反応する。
ドキドキしている音は聞こえているかもしれない。
でも、彼からもドキドキしている音が聞こえるような気がする。
こんなに近くにいたら、きっと聞こえる。
「私の人生初の推しは、アイドルの優也君です。でも、それは推しであって、リアルにどうこうとは思ってなくて」
「大丈夫。俺のことが嫌いじゃないなら婚約は破棄してほしい。あんな生活嫌だろ。俺もこの家族とは縁を切って美菜さんと一緒にやっていきたい。だって、俺の金目当ての家族なんて本当の家族じゃないから」
金目当ての家族。そんな中で彼は生きてきた。私なんかのためにこの家に住んでくれたんだ。
「……はい。私でよければお供します」
お供って、桃太郎のキジとか猿みたいな感じだけど、こんな言葉しか思いつかない。
恋愛初心者の推し活初心者がその相手とどうこうなるなんて、普通ありえないわけで。
一番うれしいのは、思いやりの会話があること。
人間として、女性として扱ってもらえている事だ。
夜になると家族が帰宅し、厳格な重い空気が走る。
なんで、この家の人はこんなに誰かを警戒しているのだろう。
誰かというのはわからないけれど、世間なのかもしれないし、身内なのかもしれない。
優しい穏やかな空気はこの家庭には無縁だった。
優也のことは息子なのにどこか距離を感じているような家族だったのはそんな理由があったからなのか。
勇気を出して優一の両親に言う。
「やっぱり、結婚のことはなかったことにしてください」
「まぁ、どうしたの美菜さん。もう式場も抑えてるし、みなさんに招待状も送ったのに」
義母は世間体の塊だ。
「冷たい家族と一緒に生活することはできないです。優一さんはモラハラにDVがあり、私は結婚できません。それならば、新しい仕事を探します」
「まぁ、失礼な人ね。いつ、優一があなたに暴力をしたというの? 同居していて親切にしていたのに恩を仇で返すつもり?」
お義母さんは本当にそう思っていたようだ。
「そうだよ。世間が婚約破棄を許さない。これが現実だよ」
お義父さんもずいぶんと冷たい。世間体が全てなんだ。
「俺が美菜さんを引き受けることにしたよ」
「はぁ?」
優一をはじめ義理の父母が驚いた顔をする。
「だって、あなたはアイドルなのよ。スキャンダルはダメな仕事でしょ。収入が減ったらどうするのよ」
義母が慌てた顔で言う。
「近々卒業する予定だし、グループも解散の方向になっているんだ」
「でも、ファンが怒って芸能の仕事はなくなってしまうかもしれないぞ」
義父も怒っている。
「だから、俺、俳優やりながら違う仕事もやろうと思ってる。映画を撮る側になる仕事。そして、塾の経営も考えているんだ」
塾の経営は優也の生きてきた道とは全然違う。でも、慶明卒の芸能人がやっている塾なんて人気がありそう。
「塾はリモートで全国の人に届けるし、家庭教師もネットを通してできる。人材のコネもたくさんあるからね。もう、彼女をいじめるようなことは許さない」
「まて、まだ俺の婚約者だ」
優一が焦る。
「ここで、結婚はなかったことにさせてください」
二人で頭を下げた。
「優也。おまえは親戚の子供だ。つまり義理の子供。だから、容姿は我々には似ていない。でも、幼少期からお金になるから芸能人の親としておまえを育ててきた。芸能人が身内にいるのはいいかと思ったが。デメリットしかない者には出ていってもらうしかない」
はっきりと言い切る義理の父親。
それからは、式場のキャンセルに親への説明に招待客への連絡。
式自体は少し先だったからなんとかなったけど、決められたドレスを着て決められた式場で結婚する予定になっていた。
ここには私の意志は反映されていなかった。
そして、アイドルと同居からの推しと両想いというすごい生活が始まった。
「全部好きだな。声も仕草も全部好き。美菜ってすごくいいんだよね」
最初からずっと優也は怒ったりしないし、一番に思ってくれる。
大切にしてくれる。みんなの優也が私の隣にいる。
「改めて聞くけど、私でよかったのかな」
ストレートの長い髪の毛を耳にかけながら問いかけた。
優也は優しい声で耳元でささやいた。
「すごく幸せだよ」
「最初、美菜を紹介されて、美菜の扱いががひどくて放っておけなかった。だから、実家暮らしに切り替えたんだ。美菜は一生懸命やっているのに、親も兄も辛い言い方をするからさ。最初は同情からはじまったのは事実だよ。でも、すごく心根が優しくて、芸能人にはいない普通の女性だった。だから、本気になった。たとえ、世界中を敵に回しても俺は美菜を守り抜く。だから、一緒になろう」
真剣なまなざし。
世界中の女性を本当に敵にしてしまうんじゃないだろうか。
明日死んでしまってもおかしくないくらい運を使い果たしたような気がする。
「私、一生懸命尽くすので、今後ともよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
目の前にはドームをいっぱいにできるくらいファンのいるアイドルがいる。
彼はどう間違えたのか私がいいと言ってくれる。
もし、気の迷いでもその言葉を受け取ろうと思えるようになった。
国民的アイドルに、今、私は愛されているんだ。
DVとかモラハラとは無縁の優しい人と一緒にいることができる。
彼は美しい顔をしているけど、感情の起伏が乏しい。
両親がいなかったからなのだろうか。あまり表情が豊かではない。
両親が死んでしまいお金のために芸能活動をしていた。
でも、ちゃんと彼の通帳に貯金されたお金は大学の学費に使ったくらいで、ほとんど残っていた。
契約の時に事務所が管理するという約束で活動を始めたらしい。
家族が管理をしたら大変なことになることは目に見えていたかららしい。
「芸能人のファンは外見だけで好きになってくれてる人が多いんだよね。俺の外見が変わっても老けても嫌いにならない?」
不安げな優也。
「ならないですよ。だって、健やかなるときも病める時も永遠の愛を誓いますかって聞かれるものでしょ」
「俺は美菜のおかげで独りぼっちじゃなくなった。もちろん誓うにきまってるよ。重いって思われるかもしれないけど、付き合うならずっと一途に愛したいから」
これは、普通の女性の普通ではない物語。
一人ぼっちだったアイドル男性が初めて人を好きになった物語。
少しずつ優也の表情の変化が見えてくるようになってきた。
私の隣で泣いたり笑ったり怒ったりする彼はもう私なしでは生きられないと言ってくれる。
私も、もう彼無しでは生きられないと思える。
だって、大好きだから。
「もう一度聞きます。本当に私なんかでいいのでしょうか?」
「美菜以外だめだから。ネガティブ発言禁止ね」
「もし、優也君がネガティブな気持ちになったら、必ず私に言ってください」
その瞬間ふわりと抱き寄せられる。
「我慢できない。キスしていいかな?」
「私なんかで……」
言葉の途中で唇が重なる。
もうネガティブ発言は唇がふさがれてできなかった。
唇が重なる瞬間心も体も私たちは重なった。
もう、私なんかでなんて思わない。
彼の心からの笑顔を見て、私のネガティブは消失していた。


