春の女神は夜明けに咲う(わらう)

終章 春の女神は夜明けに咲う

 朝の光が障子を通して柔らかく差し込む中、男の腕の中で眠る彼女の、涙の跡が残る穏やかな寝顔。
 それを愛おしそうに見つめる彼の指が、そっと彼女の頬を撫でた。

「んんっ――」

 こそばゆいのか、目を瞑りながら触れられた感触の残る頬を掻く。そしてそのまま、女はゆっくりと目を開いた。

 夢現に視線を上げると、優しく微笑む彼と目が合った。まだ、隣にいてくれている――そう実感して、胸をほっこりと温かくさせながら、女もまどろんだ瞳で微笑み返した。
 そんな彼女に男が愛おしそうに、そっと声をかける。

「おはようございます」

 その言葉に、ほんのり頬を染めた。

「はい、おはようございます」

 まるで、そよ風が吹いたかのように答えた。

 彼の腕枕が心地よいのか、彼女はそのままなかなか起きようとしない。

「動けませんよ」

 微笑みながら、男は少し困ったように眉を上げて、彼女が身を委ねる腕を、軽く揺すってみせる。

 女は、悪戯っぽく笑いながら、態とらしく、彼の腕に頬擦りをした。

 その様に、胸をぎゅっと掴まれたような感覚になった男は、余った掌でだらしなく綻んだ顔を隠すように覆ってしまう。そんな彼の仕草に、彼女はくすくすと笑うのだった。

 男はむっとした表情を浮かべたかと思うと、徐に腕の中で笑う彼女に顔を近づけて、唇を奪う。

「んっ……」

 咄嗟の出来事に、女は声を漏らして目を丸くさせたが、次第にその甘い感触を受け入れていくのだった。



「ごちそうさまでした……っ!」

 噛み締めるように柏手を打ちながら、いつも以上に元気よく挨拶をする。

「はい、お粗末さまでした」

 軽く頭を下げながら、女は努めていつも通りにそれに応えた。

「では、絵の具合を見てきますね」

 男が声をかけた時、彼女は丁度御膳を下げようと立ち上がった所だった。

「はい。後ほど、私もご一緒させていただいてよろしいですか?」
「もちろんです!」

 朗らかな返事をしながら、男はキャンバスを置いている部屋へと駆けた。



 集中して絵を描いた後、一日置くとどこか直したくなってくることもしばしばある。しかし、今回描いた絵は、どこをどう見ても、全くと言っていい程そんな箇所は見受けられなかった。
 キャンバスに顔を近づけて隈なく目を通し、「よしっ」と男は一人頷いた。

「失礼します」

 そこへ、片付けの終わった女が静々と部屋へと入ってきた。

「具合は如何ですか?」
「とても良いです。直す所もありません」
「それはなによりです。では……これで完成なのですね?」

 女が名残惜しそうに漏らす。男もほんの少し唇を噛み締めた。が、すぐに彼女に向き直った。

「はい、"ほぼ"完成です」

 その言葉に、女は首を傾げながら彼に向き直った。

「昨日も、"ほぼ"と……。てっきり、一日乾かして完成なのだと思っておりました」
「このまま完成としてもよいのですが――珠玉の出来だと自負しています。これを未来永劫残すためには本当の仕上げが必要なのです。ですが、その仕上げはすぐに施すことが出来ません」
「すぐに出来ない……。どのくらいの期間必要なのでしょう?」
「少なくとも、一年後です」
「一年後――。」

 女にとって、まさかという数字だった。視線を落としながら口元に手を添えて、彼の言葉を反芻する。
 油絵のことに詳しくなかったのもあるが、そんなにも期間を空けなければ完成しないものだとは思いもよらなかった。

 しかし、そんなことよりも大事なことを見落としている。仕上げ作業が一年後に必要ということは……。

「それまでの間、この絵を預かっていただけますか?」

 彼女に真っ直ぐに身体を向けて、男は真剣な眼差しで、懇願した。女は、はっとして彼に向き直る。

「それは、つまり……」

 心なしか目を輝かせながら、女が問う。

「はい、一年後にまた、ここへ来ます」

 その言葉に、彼女は両手で口を覆いながら、花が咲き誇ったかのようにぱぁっと明るい表情を浮かべた。

 男はそんな彼女の笑顔を見るのが、本当に大好きになっていた。にっこりと白い歯を見せながら、彼女に満面の笑みを向けた。

 女は喜びに溢れながら、彼の下へと小走りに駆け寄ると、勢いよくその胸へと飛び込んだ。
 男もそれをひしと受け止め、ぎゅっと優しく包み込む。

「お待ちしております……!必ず、かなら……ず……!」

 感情が溢れて、上手く言葉が出てこない。それでも、彼女は必死に言葉を紡ぎ出す。

「必ず、来てください……きっと、きっと……!」

 彼の腕に抱かれ、その瞳を真っ直ぐ見つめる眼差しは、切なる願いを込めた、潤んだ光を宿していた。

「はい、必ず参ります。必ず……!」

 心に固く刻むように、男は力強く答える。そして二人は、言葉にならない全ての誓い込めて、深く静かな口付けを交わすのだった――。



 春風が吹き込み、部屋へ桜の花びらが運ばれてくる。その暖かな感触と同時に唇を離し、じっと見つめ合いながら、やがて男が口を開いた。

「私は、藤田樹(ふじたいつき)と申します。あなたの名を、お伺いしてもよろしいですか?」
「はい。私の名は、八重……若菜八重(わかなやえ)と申します」
「八重――この季節にぴったりな、美しいお名前ですね」
「そんな、私には身に余る名です。でも、あなたに……樹様に言われるのは、とても嬉しく思います」

 少し照れ臭そうに頬を染めながら、彼の名を呼んで顔を綻ばせた。

「いつ出せるかはわかりませんが――手紙を書かせていただきたくて」
「もちろんです!是非書いてください。」
「落ち着いてからになると思うので……こちらは、はっきりと約束が出来ませんが」
「大丈夫です。いつまでもお待ちしております」

 彼女――八重の輝く真っ直ぐな瞳がくすぐったくて、樹は頬を掻きながらはにかんだ。



 描いた絵にそっと布を被せて、湿気の少ない部屋へ移動させると、樹は荷物を粛々と纏め始めていた。

「お弁当――お昼に召し上がってください」

 そんな彼へ、以前作ったものと同じ包みをそっと捧げる。

「ありがとうございます!八重さんのご飯はどれも絶品なので、大事に味わわせていただきますね」
「ただの握り飯ですよ?」
「ただのなんてとんでもないです。八重さんの愛情をしっかり噛み締めます」
「そんな……ご冗談を」

 むず痒くなる言葉に八重は、ぽっと頬を染めながら口元を緩ませた。
 その姿を見て樹は、これが最後だなと、目に焼き付けるように見つめて、優しく微笑む。

「やっぱり、可憐です」
「えっ、そんなこと――いえ、ありがとう……ございます」

 八重は否定する言葉を飲み込んで、ぺこぺこと頭を下げて礼を言うのだった。



 手渡したお弁当と荷物を纏める彼を、八重は名残惜しそうに眺めていた。しかし、不思議と哀しさは沸いてこなかった。

 一年という、長いようで短く、短いようで長い年月。その間にもしかしたら、何か困難が待ち受けているやもしれない。しかし、例えどんなことが起ころうとも、きっと彼とは再会できる――根拠は無いが、確信にも似たその気持ちは、八重の心を強く優しく守っていた。

「八重さん。本当にお世話になりました。このご恩と、共に過ごした日々は一生忘れません。そして一年後、また必ず参ります」

 玄関先で、深々と頭を下げながら八重に告げた。

「こちらこそ、本当にありがとうございました。私も樹様との日々を胸に、強く生きていきたいと思います。いつまでも、お待ちしております」

 八重もまた同じように、深々と頭を下げながら樹に告げた。

「では、行って参ります」
「はい、行ってらっしゃいませ」

 最後は互いに、飾らない挨拶を交わす。

 樹は荷物を抱えながら、再び深々と頭を下げ、玄関の戸を開ける。

 瞬間、ぶわっと春風が吹き込んできた。その風を一身に受け、志を宿した瞳で、堂々とした一歩を踏み出し、陽の光で輝く桜吹雪の中へ、身を溶かしていった。

 少しずつ、彼の背中が小さくなっていく。そんな樹の無事を祈り、八重はただ一心に、カチンカチンと、火打石を鳴らした。

 すると、まるでその祈りが届いたかのように、遠く離れた樹がふと足を止め、ゆっくりと振り返った。そして、大きく腕を上げながら、一生懸命に八重に向かって手を振ってみせる。

 それを見た八重も、目を潤ませて、裾を押さえながら、大きく腕を上げて手を振りかえした。
 何度も、何度も、見えなくなるまで。振り返っては手を振って――。



 彼の姿が見えなくなっても、八重はずっとそこに佇んでいた。
 彼が溶かしてくれた心を思い起こすように、そっと胸元に手を添える。そして、優しく温めてくれた、彼の仕草や言葉を一つ一つ反芻し、改めてじんわりと自らの胸に刻んでいった。



 出会った時に慌てて背を向けられたこと。

 真っ直ぐに綺麗ですと告げてくれたこと。

 湯を焚きながら身の上を話してくれたこと。

 初めて優しく抱きしめてくれたこと。

 元気よくいただきますと言ってくれること。

 そっと愛おしく口付けしてくれたこと。

 真剣な表情で絵を描いてくれたこと。

 私の全てを受け入れてくれたこと。

 心も身体も一つになった時のこと――。



 思い起こす度に、頬に雫が一つ、また一つと流れていく。
 そして最後に、真剣な面持ちで見つめながら、力強く告げてくれた言葉を思い起こした。

――必ず参ります。必ず。

 その言葉が胸一杯に響き渡り、八重は大粒の涙を溢しながら、咲き誇る八重桜のような満面の笑みを、桜吹雪へと向けるのだった。
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