春の女神は夜明けに咲う(わらう)
 ふと、微かな風にランプの儚い灯りが揺らめいて、照らされた彼女の顔が妙に幻想的に映り、思わずその目をじっと見つめてしまう。

「あの、なんでしょうか?」

 少し恥じらいもあったが、女もまた、彼の真剣な表情に思わず見つめ返した。

 昼間の出会い頭は、顔を真っ直ぐ見れないくらい気恥ずかしかったのに、今は何故か、その吸い込まれそうな瞳から目が離せなくなっていた。そして、自分が彼を屋敷に招いた時のことを思い出す。

――男と女……。

 小説の原稿を渡しに行く時以外に、普段人と接さず、かつて共に過ごした家族もほとんどが女性。恋愛や男女のまぐわいも物語だけのものだった彼女にとってはどちらも無縁の物で、自分がその渦中にいるという想像を一度も今までしてこなかった結果が、急に彼を招待したあのやりとりだった。
 そんな不躾な態度に女は自省するばかりであったが、怒ることもなくそれを受け入れてくれた彼には、いつの間にか信頼のようなものが芽生えていた。

 そしていまのこの状況――もしかして私は目の前の彼を……などと考えていたのだが、突然自らの胸元とそれに対する過去の罵詈雑言が耳をつき、ふっと視線を逸らしてしまった。

「今夜は冷えます、暖かくしてゆっくりお休みください」

 視線を背けながら男にそっけない言葉を投げかける。心なしか、苦虫を噛むかのような表情で、胸元を庇うように身体を丸め、きゅっと拳を握りながらそれを覆い隠してしまった。

 男は、その言葉を投げかけられた瞬間は、自分に嫌悪感を向けられてしまった、と思った。しかし、彼女のそんな仕草を見た時に、その嫌悪感は恐らく男に対する、ではなく、彼女自身に対する、ものだということを察した。
 男はしばし考えた後に口を開く。

「……そうですね、わかりました。あなたも、無理はなさらないでください」

 そのまま留まるのも彼女の気持ちを無下にしてしまいそうだ……ここは静かにその言葉を受け入れるべきだろう。
 ぺこっと会釈して襖を開けようと手を伸ばしたが、ふと女のことが気になってそちらを振り返る。
 そこには、先ほどから体勢こそ変わっていなかったが、玄関で呼び止められた時と同じ、あの子犬のようなすがる目をした女の姿――その視線は控えめながらも、こちらを確かに見つめていた。

 彼女が何故そんな目をしていているかはわからない。でもどこか、行き場を失っているようなその目を見つめ返していると、視線を外すことが出来なくなってしまっていた。

 この目はきっと自分と同じ色をしているのかもしれない。絵師としての志を絶たれた自分は最早誰の力にもなれない……そんなことを考えていたが、今この時だけは、彼女の力になれるのではないか――いや、力になりたい。そうでなくては自分自身すら救えない気がして。
 いや、もしかしたらそんな理屈ではないのかもしれない。ただ、目の前の彼女の瞳から、あの悲しみの色を拭ってあげたい。それだけが心から湧き上がってきていた。

 男は彼女の目を見つめながら、衝動的に踵を返して身を乗り出すと、彼女の身体を引いて強く抱きしめていた。

「きゃっ。な、なにを?」

 女は突然のことに困惑するばかりであったが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。むしろこうなることを望んでいたのかもしれない、とさえ思えた。

「すみません。あなたの姿を見ていたら、どうしてもこうしてあげたくなってしまいました」

 男も自身の行動に多分に困惑していたが、湧き出てしまった感情を鎮めるにはこうするより他になかった。
 瞬間はお互い身体を強張らせていたが、徐々に温もりが伝わっていくにつれて、その感触に身を委ねていく。

 しかし、女はふと我に返る。こんなに密着しては、この忌まわしい物が彼に当たってしまう……。幸い元から片腕でそれを庇っていた為、直接の接触はないが、この大きな膨らみではいずれ当たってしまう。そうならないように少しずつ身を剥がそうとするが、男のほうがそれを許してくれなかった。

「どうかご自分を卑下なさらないでください」

 そう言われて女はぴたりと動きを止めた。

「あなたがご自分への嫌悪を示す度に、私はそれを包んであげたくなります。それはあなたの身体が、とかそういうことではありません。こんな見ず知らずの男を泊めて下さるような心優しいお方に、憎いだなんて負の感情を抱いて欲しくないのです」

 言いながら少しずつ強く、それでいて優しく、包むように彼女を抱きしめる。女はその言葉で胸のつっかえが取れたように、ふっと力が抜けた。いつの間にか、胸を庇っていた腕もだらりと床に垂れ、完全に身を委ねて寄り添っていた。

 やがてゆっくりと身を離し、お互いの表情を間近で見つめる。思えば二人とも、昼間から相手の顔をまじまじとは見ていなかった。ずっとどこか余所余所しくて、真っ直ぐにお互いの顔を見たのはこれが初めてだった。

 それぞれの油の匂いと墨の匂い、それらが混ざりあった独特な匂いの奥に、どこか安心感のある心地の良い匂いがお互いの鼻腔をくすぐる。

 男は彼女の背に回していた右手で、そっとその髪を撫でてやる。女は突然の後頭部の感触に一瞬戸惑ったが、その優しい感触をすぐに受け入れた。彼はそのままゆっくりと、女の頬に手を添える。その手の温もりを拒むことはなく、優しく目を細めてじっと彼を見つめていた。

 そして、ゆっくりと顔を近づけ、そっと口付けを交わす。

 女は、んっ……と小さな吐息を漏らしながら、互いの柔らかな感触を味わっていた。



 たった一瞬の感触。それでもとても心地よい温もりで、どちらともなく離れると、互いに頬を染めながら、時間を忘れてじっと潤んだ瞳を見つめ続けていた。

 蕩けそうな程のその空間に身を委ねていた男は、自然と吸い寄せられるように、手をゆっくりと、彼女の胸の膨らみに添えようとする。

「いやっ!」

 その瞬間、女は反射的にその手を払い除け、身を離してしまった。それは自分でも驚くほど心のざわめきだった。どうして……私は、愛されるような人間じゃないのに。そんな思いが急に沸々と沸き上がり、ぎゅっと胸の奥を締め付けた。
 男もびっくりして身を引いてしまい、女はすぐにはっと自分のその行動に動揺し、思わず両手で口を抑えてしまう。

「ご、ごめんなさい。私、私……」

 今にも泣き出しそうになりながら、首をふるふると振って視線を落とした。その姿を見るや否や、男はすぐさま彼女の肩に手を触れて、固まってしまったその身体をひしと抱き寄せた。

「謝らないでください。これは私のせいです、わかっていたはずなのに……。もっとあなたの心を労うべきでした。本当にごめんなさい」

 先ほどよりも強く、心から詫びたいという気持ちを伝えるかのように、ぎゅっと抱きしめる。
 女はそんな彼の優しさに強張った身体を緩ませていき、身を委ねながら大粒の涙を流し、すんすんと、その啜り泣く声だけを暗い部屋に響かせた。



「――すみません、取り乱してしまって……」

 沈黙を破ったのは女の方だった。それを聞いた男は、彼女の肩を抱いて向き直る。

「とんでもない、これは私の不徳の致す所です。あなたの気持ちも考えずに我武者羅なことをしてしまって、恥をかかせてしまった。なんとお詫びすればよいか……」
「そんな、私がいけないのです。自分のことが憎いあまりに、あなたにまで迷惑をかけてしまいました」
「迷惑などではありません。そうだとしても、遠慮なくかけてほしいくらいです。私はあなたのことを全て受け止めてあげたい」

 それを聞いて、女の目からまた大粒の涙が溢れた。そして今度は、彼女から男の胸に顔を埋めるように寄り添い、それに呼応して彼もきゅっとその柔らかい身体を優しく抱きしめた。
 
 腕の中で女が静かに口を開く。

「こんな気持ちは初めてで……恥ずかしながら、どうすればよいかわかりません。どんなに物語を読んで似たようなお話を書き記していても、私自身の事となると答えを出すことが出来ないのです」

 それはただ愛しさだけでなく、もっと奥底に潜んでいた弱さと不安を晒すことでもあった。ずっと覆い隠してきた、自分の醜さや臆病さを。
 それでも今、彼の腕の中にいると……それすらも少しずつ溶かしてくれるようなそんな気が女にはしていた。

「大丈夫です。……と言いたいところですが、正直私もどうすればいいかはっきりわかっておりません」
「あなたもですか?」

 男の言葉にふと顔をあげて、泣き腫らした目で彼の瞳を見つめながら問いかける。

「はい。今日初めてお会いした方に、すぐにこんな感情を抱くなんてことは私も今まで無くて……。だからこそ、まだあなたのことをちゃんと知る前に突っ走ってしまったのかも。とはいえ、これはただの言い訳ですね。穴があったら入りたいです。申し訳ない」

 眉を顰めて反省している姿を見て、女からふふっと笑みが溢れた。

「すみません、あなたも一緒の気持ちだったんだと思うと嬉しくて」
「そう言って貰えて私も嬉しいです。改めて、先程は本当にごめんなさい」
「そんな、私の方こそごめんなさい。一瞬とは言え暴力を振るうようなことまで……」
「いやいや、それも私のせいですから。謝らないでください」

 いえいえ、いやいや、と何度目かの謝罪合戦が始まり、ふと二人の視線がかち合うと、顔を見合わせながら思わず笑い合ってしまっていた。



「お仕事、しないと……」

 唐突に現実に戻る言葉だったので男は目を丸くしたが、硯の音と部屋に入ったときのことを思い出して我に返った。

「そうですね。なんだか夢を見ている気分になってしまっていました」
「私もです。その、こんなこと言うのも可笑しいかもしれませんが……お仕事が捗りそうです。ありがとうございます」

 恥ずかしそうに俯いて、上目遣いでそんなことを言う姿を見て、男は内心手足をじたばたと暴れさせていたが、なんとか心の中だけに留めた。

「それはなによりです。お仕事、頑張ってください」
「ありがとうございます。私のことは気にせず、ゆっくり休んでくださいね」
「はい。それでは、おやすみなさい」
「おやすみなさい」

 挨拶を交わし、男はにこっと微笑みながら立ち上がって襖に向かうと、軽く頭を下げて隣の部屋へと去って行った。襖が閉まるまでの間ずっと、女はそちらに視線を向けていたが、一人になってようやく彼女も我に返る。

 とても心地の良い時間だった。女は心からそう思った。腕の中の温もり、柔らかな唇の感触、そして手の甲に残る痛み……それらを思い返しているうちに、彼女はふと自分の中に渦巻く不安を見つけた。

――私はどうして、こんなにも怯えているのだろう。

 今まではその答えは出るはずのないものだった。しかし、今回彼と過ごしてみてわかりかけている気がしている。
 きっと、愛されたいのに愛される自信がない、それが、私をいつも追い詰めているのかもしれない、と……。

 家族との別離は彼女にとってとても辛いものであり、その原因となったこの大きな膨らみもただただ憎い物であった。

 そんな憎しみの籠っているこれを、彼は魅力的だと言ってくれた。それ自体嬉しいことのはずなのに、受け入れられない自分もいる。その結果、彼の手を払い除けてしまった。彼もまた、家族と同じようにこれを拒むのではないかと思ってしまったからだ。

 しかし、拒んだのは彼ではなく自分の方だった。にも関わらず彼は、そんな拒む私でさえ受け入れて、それどころか優しく包んでくれたのだ。

 そこまで考えて、そっと指先を自らの唇にあてがい、あの柔らかい感触を再び反芻する。
 優しく触れ合っていたあの時間を思い出すと、凝り固まった心が少しずつ溶けていき、心の奥がきゅんと暖かくなるように感じた。

 その感覚を胸に、筆を取って原稿用紙を埋めていく姿は、まるで恋をしている彼女の気持ちが優しくにじみ出ているようだった。
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