春の女神は夜明けに咲う(わらう)

第四章 愛おしさに魅せられて

 キャンバスと彼女、真剣な眼差しで交互に視線を送って筆を走らせていると、彼女に差す日の光が淡い橙色に変わっていることに気がついた。
 遠くでは鴉が、ひと声ふた声、鳴いている。

「今日は、そろそろ切り上げましょうか」

 男はそっと筆を置いて、静かに言った。

「はい、お疲れ様でした」

 そう言って、女は恭しく頭を下げる。

「そちらも、お疲れ様でした。ありがとうございました」
「いえいえ。すごい集中力で驚いてしまいました。私もまるで時が止まっているかのようで……気づいたらもうこんな時間なのですね」

 朱に染まる空を見上げながらしみじみと溢す。男もつられて顔を上げ、しばし二人で茜空を見渡していた。

「……描いているといつもこうなんです、すっかり時間を忘れてしまって──お昼休憩があったとはいえ、一日中ずっと座りっぱなしでお辛かったでしょう」
「大丈夫ですよ。あなたの真剣な眼差しに少し緊張してしまっていましたが……とても嬉しかったです。おかげさまで、本当に心地の良い時間でした。ありがとうございました」
「とんでもない、私もあなたの姿をずっと見ることが出来て、本当に充実した一日でした。長時間、ありがとうございました」

 思いがけない言葉に女は、「いや、そんな……」としどろもどろになりながら、ぽっと頬を染めてしまう。

「明日も、どうぞよろしくお願い致します」
「こ、こちらこそ。よろしくお願い致します」

 こうなると、どうも彼の顔をまじまじと見ることができなくなってしまう。そのまま俯いて、小さくぺこぺこと頭を下げていた。
 男もなんとなく、その行動の心理に気がつき始めており、それを目の当たりにする度に、密かに胸がきゅんと締め付けられていた。

「夕餉の準備を致しますね」

 女は自分の表情を隠すかのように俯いたままそそくさと立ち上がり、ぱたぱたと小走りで台所へ向かう。
 そんな後ろ姿を見送り顔を綻ばせると、うんと伸びをする。

「自分も、片付けたら薪割りでもしようかな」

 独り言ちながらも、その場からなかなか動こうとしない。
 夕餉の香りが流れてくるまでの一時のあいだ、まだ少し、この静かな余韻に浸っていたい──そんな気分だった。



 御膳に乗った品々を見ながら、男はごくりと唾を飲み込んだ。今日は肉じゃがに出汁巻き玉子、そして山菜のお浸し。昨日とはまた違う漬物が添えられて、なんとも食欲をそそられる献立だった。

「いただきます!」

 ぱんっと柏手を打ちながら元気よく挨拶して、いそいそと箸に手を伸ばす。

「はい、召し上がれ」

 そんな彼の様子をじっと眺めながら、静かに女は微笑んだ。

 男は肉じゃがを一口食べて味わうと、ぱあっと目を輝かせながら女の方を見る。絵を描いている時の真剣な面持ちと打って変わって、その少年のような表情に、女はくすくすと笑みを溢した。
 続いて出汁巻き玉子、お浸し、と一口食べる度に目を輝かせて、何も言わずにもぐもぐと口を動かしながら何度もこちらを見るので、女は溢れる笑みが止まらずそっと口元を抑える。

「可愛い……」

 思わず女は呟いた。

「んむっ。何か言いました?」

 掻き込むようにがつがつと食べていたからか、男の耳には届かなかったようである。茶碗と箸を持ちながら女に尋ねた。が、その口元には米粒が一つひっついており、女はついに吹き出して、下を向きながら息を漏らし肩を震わせてしまう。男はきょとんと、その様を眺めるしかなかった。

 女はふうと一息吐くと、「ついてますよ」と言わんばかりに、自らの口元を、ちょんちょんと、指差して見せる。
 男は一瞬なんのことかわからなかったが、はっとして口周りを掌で探ると、ようやくその米粒を見つけたらしい。それで、彼女の笑みの意味を察して、決まりが悪そうに笑いながらぽりぽりと頭を掻くのだった。




 「今日の湯浴みはあなたから」と女に言われたが、そういうわけにはいかない、と断固として譲らず、結局昨夜と同じく、男が湯を沸かして先に彼女から湯に入ることになった。

「お湯加減いかがですか?」
「丁度よいですよ。ありがとうございます」

 昨夜とほとんど同じ言葉を一言だけ交わしたが、それ以降はどちらも口を開かず、静寂な時を過ごしていた。

 何も言葉を交わさずにいると、湯殿から時折聞こえるちゃぷ、ちゃぷ、という水の音が、男の耳を妙に刺激する。それによって、女のあられも無い姿を思い出してしまって悶々としかけてしまう――が、その度に首をふるふると振って払拭していた。

 女もまた、小窓の外から聞こえてくる、薪を焚べているであろうからん、からん、という音に耳を傾け、男が側にいてくれている安心感に身を委ねていた。



 ふと、薪の音が突然止んだ。何故だかわからないが、それだけで心がざわついて、はっと小窓へと視線を送ってしまう。

「そこにおられますか?」

 おすおずと女が尋ねる。

「はい、ここにおりますよ」

 男は即座に応えた。ふう、と彼に聞こえないように安堵の息を漏らす。

 その時、女は昨日抱いたものとは違う不安が芽生えていることに気がついた。

 最初は一人でいることの寂しさから彼を引き留めて、次に拒まれるかもしれないという不安に悩まされ……。

 今のこの不安はそのどれとも明らかに違う――。この方はきっと、明日絵を描きあげたら、去ってしまうだろう。それを思うだけで、胸がきゅっと苦しくなってしまう。

 ずっと側にいてくれたら――叶わぬと知りながら、ふとそんなことを思ってしまう。しかし、湯船に沈む目の前の二つの大きな膨らみを見ると、そんな想いが陰を帯びて、暗く俯いてしまった。
 拒まれたくない、でも離れたくない。勇気を出せない自分にもどかしささえ覚え、今のこの時間を噛み締めるように、昨日よりも少しだけ長く湯船に浸かっていた。



 男が湯浴みから上がると、ランプと月明かりの儚い光の中、昨日と同じく布団が一式、部屋に敷かれていた。一人分の布団の白さが、やけに心もとなく感じられた。
 心なしか残念そうな表情を浮かべながら、その布団の上に座る。その様子に気づいたのか、女が隣の部屋から襖を開けて覗いてきた。

「あの、つかぬことをお聞きしたいのですが……」
「ん、なんでしょうか?」
「今日も、その、隣で寝てもよろしいですか?」

 言葉に詰まりながら、膝の上で指先をもじもじとさせているそのいじらしい姿に、男はぐっと奥歯を噛み締めた。まさか、ちゃんと許可を得てから行動しようとしてくれていたのか……。

「もちろん大丈夫ですよ。あなたさえよければ、どうぞこちらへ」

 隣に手を差し出しながら男が言う。彼女は、ぱあっと華やかな表情を浮かべながら、いそいそと布団を抱えて運んできた。

 昨夜と違って今日は積極的だな、と男は思った。いや、正確には昨夜も隣に来はしたのだが、今回のように事前に告げてから、というのが積極さを感じさせるものだった。
 恐らく昨夜は、気づかれないように隣で寝て、先に起きて何事もなく過ごすつもりだったのだろう。寝坊して破綻してしまっていたが……。

 そもそも、寝ている姿なんて完全なる無防備で、信頼のおける人でなければまず見せようとしないはずだ。
 自分に甘えてくれているのか、はたまた人の傍に身を置くことで安心感を得ているのか――。どうあれ、彼女はこうして真っ直ぐに自らの意思を示してくれたし、男自身もそんな彼女なら……と言う気持ちがあったのですぐに快諾したのだった。

「では、失礼しますね」
「はい、どうぞ」

 布団を隣に敷いて軽く言葉を交わす。視線が合う度に、静かにふふっと笑い合った。

「今日はお仕事なさらないのですか?」
「はい。切羽詰まっている時は別ですが……おかげさまで、昨夜はとても筆が乗りましたので、一日二日程度なら、お休みしても問題ありません」
「それはよかった。こうして人と接することによって、何か刺激になっているのでしょうかね」
「そうかもしれません。あとは……一緒に過ごしているのがあなたとだから、というのもあると思います」

 何気ない一言だったが、女としては、それは今できる精一杯の意思表示だった。

 それが伝わったので、男はどきっと胸が高鳴る。まさに不意打ちな一言で、頬を染めながらすぐに返す言葉が見つからず、それを誤魔化すように頭を掻いて少し目を泳がせてしまった。

「その、なんて言えばよいか……本当に嬉しい時ってなかなか言葉が出てきませんね。光栄の至りです……なんて、月並みすぎて何かしっくり来ませんし……」
「そんなことないですよ。私もとても嬉しいです」

 本当は、一生懸命言葉を探してくれるその姿だけで十分気持ちが伝わっております――と思っていたが、敢えて女はそこまで口にはしなかった。何より、その様を側で見ていられることが、女にとってとても幸せなことだった。

 やがて、男はぱっと顔を上げて彼女に向き直る。その真剣な表情に、女も聞き入れなければ、と自然と背筋を伸ばした。

「今日あなたを描いていて……私も同じような気持ちになりました」

 女の胸がとくんと静かに鳴る。

「絵を描いていると、自然とその姿を隈なく観察します。それが今回はあなたで……あ、もちろんいやらしい気持ちでは決してありません!」
「はい、わかっておりますよ」

 必死の弁明に、静かに諭すように声をかける。きっと、私の全身……この忌まわしい胸を含めて見ていたからこそ、動揺させまいとしてくれたのだろう、と女は思った。

「あなたの姿……髪の毛や、目や口、首元……胸。それらを見る度に、その全てを一つ一つ大切に描きたいという、愛おしさのような気持ちが込み上げてくるのです」

 具体的な部位を口にしてくれるのでなんともこそばゆい気持ちになったが、それよりも、その中に敢えて"胸"と加えてくれたことが、女にとって何よりも響いた。

「筆を走らせながら、次に描きたいあなたの姿が次々と浮かんでくるようで……もっと知りたいと願えば願うほど、それが止まらなくなりました」

 昨日から、彼の言葉は心にじんわりと沁み渡っていたが、今はほんの少しだけ違った。丁寧に語ってくれるその言葉の一つ一つが、凍ってしまっていた女の心を、少しずつ少しずつ溶かしてくれているようだった。
 もっと知ってほしいと願っていた時に、もっと知りたいと伝えてくれたこと……なによりそれが一番、女にとって心から嬉しいことだった。

「嬉しい……です」

 精一杯振り絞って女は応えた。彼がこうして伝えてくれているのだから、私も何か伝えないと……そう考えて言葉を選ぶが、なかなかそれが出てこない。

 私もあなたのことがもっと知りたい、そしてあなたにも私のことをもっと知ってほしい――ただそれだけの言葉が、どうしても口から出てきてくれないのだ。

 迷惑を掛けてしまう、拒まれてしまう……そんなことばかりが頭の中を巡ってしまい、女は悔しそうに、胸の上できゅっと手を握りしめた。

「でも、どうすればよいかわかりません……」

 とにかく何か伝えたい。そんな気持ちとは裏腹に、「わからない」と答えてしまう自分が歯痒くて仕方がない。

「ごめんなさい、困らせるつもりはなかったのです……」

 ついには彼から謝罪をされてしまった。
 違う、違うんです!そう叫びたいのに彼女の凍った心はそれすらも許してくれない。悔しくて堪らなくて、とうとう彼女は大粒の涙を流して顔を覆って泣き出してしまった。
 その姿を見て、男はさらに困惑してしまう。その様子も相まって、こんな姿を見せるつもりじゃなかったのに、とさらに悔しくなり、余計に涙が止まらなくなってしまった。

「私に見られるのが、お辛いですか?」

 男としては、彼女の涙の原因が知りたくて、思い当たることをとにかく聞くことしかできなかった。しかし、彼女はその問いを聞いて、顔を覆いながらぶんぶんと勢いよく首を横に振る。
 辛くないことがわかりほんの少し安堵するが、それでは一体この涙は何なのか……男の困惑は深まるばかりだった――。



「嬉しいんです。あなたの言葉は本当に……」

 少し涙が落ち着いた頃に、女は振り絞るように口を開いた。

「あなたが想いを込めて、私を見てくれることが本当に嬉しい。それが辛いはずがありません。ですが……」

 そこまで言いかけて、また言葉を詰まらせてしまう。
 何か伝えたいことがあるんだ、と察した男は、柔らかい表情で、静かに次の言葉を待ち続けた。

「嬉しければ嬉しい程……あなたと、離れてしまうことを考えるのが……何よりも、辛いのです……!」

 凍った心の呪いを必死に振り払うように、女は精一杯に思いの丈を伝え、言い切った後には、また涙を溢れさせて泣きじゃくってしまった。

 その言葉と姿が痛い程に心に突き刺さり、男は考えるよりも先に、咄嗟に彼女に身を寄せて、その想いを包み込むように自らの胸の中に目一杯に抱きしめた。

 すぐに言葉は出てこなかった。とにかく今の想いを一心に込めて、涙で震えているそな小さな身体を、ぎゅっと優しく包む。
 女は、密着することで聞こえてくる彼の心臓の鼓動とその温もりで、じんわりと胸の奥まで包まれていくようだった。

「私も……離れたくありません」

 女の耳元で、男は囁いた。

 彼も一緒の想いだった――泣き止んだはずの瞳からまた一滴、涙が頬を伝い、彼の服に染みた。そして、女もまた彼の背に手を回し、きゅっと包むように抱きしめる。

 胸が当たることなど、最早どうでもよかった。それよりも、互いに重なったこの想いを確かめ合うことの方が、今の二人にとって何よりも大事なことだった。
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