恋ひわずらふ帝~御簾の奥、ただ君を想う~
「……ああ、百合か。急に雨が降ってきてな。少し、迷ってしまった。」

落ち着いた、けれどどこか柔らかな響きを持つ声。

それが、帝――この国で最も尊いお方のものだというのか。

しかも、百合様はまるで昔馴染みのように、ためらいもなくその方と会話を交わしている。

「沈丁花の香りも、流れてしまいますね。」

「ああ……この雨では、どうしようもないな。」

やがて百合様が、そっと何かを手に取った。

それは、帝が脱ぎ捨てた濡れた衣だった。

「これを、あとで洗ってたもれ。」

帝の衣――。沈丁花の、あの香りがする。

私は息を呑みながら、両手でそれを受け取った。

「……はい。」

手にした布の重みと、柔らかな香り。

指先まで染み渡るような、名残惜しい温もりがあった。

――それで、終わるはずだった。

ただ、それだけの、すれ違いの一瞬だったのに。
< 7 / 44 >

この作品をシェア

pagetop