恋ひわずらふ帝~御簾の奥、ただ君を想う~
その笑みは、どこか子どものように無邪気で、けれど、どうしようもなく遠くて、胸をしめつけられるほどだった。

そして私は、晴れた日に帝の衣を洗った。

もう、沈丁花の香りはどこにもなかった。

布の感触だけが、あの日の記憶を静かに呼び戻してくれる。

「春野。」

ふいに、百合様の声がした。

「ああ……帝の衣ですね。」

「はい。」

私はそっと布を広げ、丁寧に物干し竿へと掛ける。

風が吹いて、衣がふわりと揺れた。

「百合様……」

私はふと気になっていたことを口にした。

「私、帝に名を名乗っても……よかったのでしょうか?」

百合様は一瞬、私の顔を見て黙った。そして目を細めて言った。

「――そのことか。」

少し間を置き、静かに続ける。

「名乗ったところで、何の構いもせぬだろう。」

そう言った百合様の声音には、どこか寂しさが滲んでいた。
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