メシマズな彼女はイケメンシェフに溺愛される
 両親を事故で無くしたときにも思った。どれだけ悲しくても、もう生きていたくなくても、体は生を切望している。
 ため息をついた目に、ビストロのスタンド看板が見えた。

 顔を上げると、レンガ造りの壁にステンドグラスのアーチ窓があった。壁のカンテラの下にはロートアイアンのサインブランケットがあり、lumière(リュミエール)と書かれている。フランス語で『光』だ。

 瞬間、怒りが全身を巡った。
 なにが光だ。料理には絶望しかない。
 どれだけ頑張っても認めてもらえなかった。甘味、辛味、塩味、酸味、うま味。それらはわかるのに、もはやなにがおいしいかわからない。

 だけどここには、努力を認められて厨房に立つ人がいる。
 彼らは感覚がおかしくなるまで努力したのだろうか。
 いや、ないだろう。ずっとずっと、美味しいものばかりに囲まれてきたに違いない。
 全身を満たした憎悪と嫉妬の炎は、やがてひとつの思考へと収束する。

「賭けてみよう」
 ここの料理がおいしかったら生きる。おいしいと思えなかったら……。
 そのときは、ざまあみろ、と笑って死んでやろう。あなたたちの料理はしょせん飢えを満たすだけのもの。人を救ったりしない。努力なんて無駄なのよ。

 決意を胸に、薄い緑のドアを開ける。
 やわらかなオレンジの照明が照らす店内は落ち着いていて、家庭的な温かさがあった。
 気取った内装を想像していた陽音には拍子抜けだった。
「いらっしゃいませ。カウンターへどうぞ」
 声をかけられ、彼を見た。
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