メシマズな彼女はイケメンシェフに溺愛される
「おひとりで?」
「そうです」
「大変ですね」

「でも、席数も多くないですし、お客様も理解してくださってるので大丈夫なんですよ。おいしいって言っていただける方に出会えるのがなによりもの楽しみです」
 嬉しそうに語る彼に、陽音の目が潤んだ。
 ただその一言が欲しくてあがいて、結局は言ってもらえなかった。自分にはとても遠い言葉だ。

「良かったらまた試食に来ていただけませんか? お代はいりませんので」
「嫌です」
 彼女の即答に、彼の目が翳った。

「きちんと代金を払いたいです。すごくおいしいので」
 彼の目は驚きに見開かれ、それからゆっくりと孤を描いた。
「ありがとうございます。俺、白築乃蒼です」
「比江島陽音です」
「陽音さん、いい名前ですね」
 いきなり下の名前で呼ばれ、陽音の顔にかーっと血が昇った。

 それからは週に一度、彼の店に通った。
 単品ならそれほど高くないし、淳太に料理を作らなくていいので時間もお金も余裕ができていた。今まで、淳太のごはんを作る代金は陽音が持っていた。不味いメシを食ってやるんだからそれぐらい負担しろ、と言われたからだ。
 別れて以降、淳太からは何度か着信とメッセージがあったが、すべて無視していたら静かになった。

 何度かお店に通って混む時間がわかったあとは、ずらして行くようにした。ラストオーダーに近くなるのだが、彼は閉店時間を越えてもゆっくり食事をさせてくれた。
 カウンター越しだったぎこちない世間話が、桜の季節には近くの席で仕事の愚痴を言い合い、若葉が茂る頃には隣の席になっていた。
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