残業以上恋未満
そのとき私はようやく気が付いた。
私は、高松部長が亡くなっているなんて信じたくないんだ。嘘だって、部長はちゃんとここに生きているんだって言ってほしいんだ。
だって、もし、高松部長が亡くなっていたとしたら、きっとそれはいつか別れが来てしまうということだから。
私はまだ高松部長と一緒にいたいんだ。
残業時間の、ただただ何気ないこのお喋りの時間を、きっとずっとまだ過ごしていたい。
どうしてこんな気持ちになるのか、私はもう答えを持っている。
けれどそれを言葉にすることは、できなかった。
高松部長は私からゆっくり離れると、少し寂しそうに笑った。
「早河の言う通りだよ」
「え……」
「俺はもう死んでいるんだ、三年前に」
高松部長の声で、言葉で、そうはっきりと私の耳に届く。
「今まで話せなくて悪かった。早河といる時間が、俺は好きになってしまったんだ。いや、こんな言い方はずるいな。俺はきっと、早河を好きになってしまったんだ」
高松部長の言葉に、私は思わず口を開きそうになる。
しかし、それを制した部長は、ゆっくりと話し出す。
「俺が動けるのは、いつもきまってこの時期だ。もしかしたら、俺が死んだ時期と重なるからなのかもしれないが、どういう理由かはいまいちわからない。俺はどうやら生前、過労で死んだらしい。なんとなくそんな記憶があった」
そのあと語られたのは、先程堂島部長から聞いたものと同じ内容だった。
私は高松部長の話をただただ静かに聞いていた。
「俺はこうして目覚める度、残業をしている従業員に声を掛けるようになった。俺みたいなことにならないようにと注意したかったんだ。しかし、注意しようにも、俺の言葉が聞こえないものたちばかりだった。だから少しわざとらしく音を立てたりして、怖がらせて、残業をしないように注意喚起していたんだ」
部長は言葉を区切ると、私を見つめた。
「けれど、早河は違った。俺が声を掛けると、真っ直ぐに俺を見て固まった。そんなふうに俺がはっきり見える人は早河が初めてだった」
遅くまで残業していた私を、高松部長はいつものように注意しようと思ったらしい。
部長はそのときのことを思い出すかのように笑い出す。
「あの時の早河といったら、大口を開けてバームクーヘンを食べようとしていて、俺に見られて羞恥で顔を真っ赤にしていたな」
幽霊にしては明るすぎる高松部長の笑顔に、私は段々気が抜けてしまう。
「それからも早河は毎日のように残業していて、俺はそれをやめさせたかったんだが、どうにも早河と話すのが楽しくなってしまってね。お菓子が大好きで、仕事熱心な姿を見ていると、どうしても応援したくなってしまって、気付けば俺は、この時間が好きになってしまっていた」
あ、高松部長も私と同じだったんだ。
この二人きりでお喋りする残業の時間を、好きでいてくれたんだ。
「部長、私も、……」
私の言葉は、またしても高松部長の言葉に遮られる。
「でも、きっと今年ももう私は眠りにつくのだろう」
「え?」
「さっきも言ったが、毎年この時期にだけ行動できるんだ。日中の記憶もない。この時期のこの夜の時間だけに俺の意識が存在するんだ。だからきっと今年も、俺はまた眠りにつく。目が覚めたらまた来年なのか、再来年なのか、はたまたもう高松 奏一朗としては目覚めない可能性もある」
「そんな……」
高松部長は困ったように眉を下げる。
「今まで、話せなくて悪かったな」
私はふるふると力なく首を横に振る。
「早河の頑張りを俺はずっと見てる。でも残業はほどほどにしておけよ?俺みたいになってほしくはないからな」
「じゃあ、また……」と部長の声が頭から降ってきて、私は慌てて顔を上げた。
「高松部長……っ!」
けれど顔を上げた先には、すでに部長の姿はなかった。
もう、お別れ……?
高松部長ともう会えなくなるの……?
明日が終わればお盆休みに入る。
私も会社に来ることはしばらくなくて、お盆が明けた頃にはもう高松部長と会えなくなるのかもしれない。
「……私、部長になにひとつ伝えられなかった……」
いや、伝えなくてよかったのかもしれない。
こんな口に出してしまえば、ただ悲しくなるだけの気持ちなんて、高松部長だって困るだけだ。
『俺はきっと、早河を好きになってしまったんだ』
高松部長の言葉が、はっきりと耳に残っている。
私はまた零れ落ちそうになった涙を、ぐいっと手の甲で拭う。
「私にはなにも言わせてくれなかったくせに、部長ばっかりずるいよ……」
ああ、高松部長に恋する前でよかった、なんて自分に言い聞かせても、そんな嘘、ただただ胸が苦しくなるだけだった。