まだ触れられたくて、でも触れたい。
先生としての仕事
「Anna, I’m preparing for afternoon tea」
「Yes, Elina. I’ll wake you up(はい、エリーナ。私はみんなを起こしてくるわ)」
同僚のエリーナにそう答えると、私は少しだけ深呼吸をして、まだ静まり返ったお昼寝中の部屋に足を踏み入れた。窓から差し込む柔らかい光が床に淡く揺れていて、その穏やかな空気に胸が少しだけ和む。――私、千歳杏奈《ちとせ あんな》は、海外のウィーンで幼稚園教諭として働いている。
この部屋には、一歳から六歳までの小さな子どもたちが寝ている。自由と自主性を大切にするモンテッソーリ教育に従い、子どもたちはそれぞれの時間を過ごしている――けれど、私の仕事はその静かな空間を少しだけ乱すことでもある。
「It’s time for everyone to get up(みんな起きる時間よー)」
誰も起きる気配のない子どもたちに声をかけながら、私はオルガンの前に腰を下ろした。小さな指で鍵盤を触れると、温かい音が部屋に広がる。心の中で、「よし、今日も一日、みんなが笑顔で過ごせますように」と願いながら、有名な明るい曲『Head, Shoulders, Knees and Toes』――『頭肩膝ポン』を弾き始めた。
「Anna, I’m still sleepy(ぼく、まだねむい)」
「起きる……It’s time to get up Tommy(トミー、起きる時間よ)」
まだ夢の中にいる彼らに声をかけながら、私は心のどこかで温かさを感じていた。小さな体で必死に目をこすりながら起きる姿が、愛おしくて仕方ない。すると、黒髪の綺麗な女の子の姿が目に入った。
「アンナ先生、おはよ」
「あら、菜央さん。おはよう」
龍咲菜央――この園では珍しい日本人の女の子だ。私がまだ英語もままならず、なかなか馴染めなかった頃、彼女の笑顔にどれほど救われたか分からない。今でもその優しい眼差しを向けられると、心がふわりと温かくなる。
みんなが起き、オルガンの音に合わせて元気に歌い始める姿を見ながら、私は胸の奥で小さな誇らしさを感じていた。海外で夢だった保育の仕事をできること、子どもたちの笑顔に触れられること……それだけで、日々の努力や不安はすべて報われる気がした。
「Everyone is ready for afternoon tea(アフタヌーンティーの準備ができましたよ〜)」
エリーナの声が響き、子どもたちが一斉にわくわくと声をあげる。私も自然に笑みがこぼれる。
ウィーンに来て三か月――まだ英語は完璧じゃないけれど、日常会話は少しずつ問題なくなってきた。憧れだった海外での生活、夢に描いたモンテッソーリ教育の現場……仕事が楽しくて、胸がいっぱいになる。
「Anna Would you like to go out for dinner?(ご飯行かない?)」
エリーナとベルの誘いに、私は迷わず答えた。
「By all means. I want to go(ぜひ。行きたいです)」
ふたりは、私が来たばかりの頃、孤独を和らげてくれた唯一の友人だ。心のどこかで、こうして誰かと笑って食事に出かけられること自体が幸せだと思った。
いつもの食堂に着き、慣れ親しんだシュニッツェルを頼む。揚げたてのカツレツを前に、ふっと遠くを見つめると、幼い頃に夢見た自分の未来がほんの少しずつ現実になっている気がして、胸がじんわりと温かくなる。
「Does Anna have a lover?(アンナは恋人はいないの?)」
恋愛話……まだ自分には縁遠い話題だった。高校までは勉強一筋、保育士の資格取得で忙しく、恋愛に気を向ける余裕はなかった。短大での課題やピアノ、そしてウィーンへの憧れ……心の中の大切なものが、恋よりもずっと大きかった。
「Because I like the work of the teacher. Is love good now? (私は先生の仕事が好きだから。今は恋はいいかな)」
私の答えに、エリーナがちょっと呆れたように笑う。
「If you say that, you can’t get married! Anna is cute so I have to go more aggressively! (そんなこと言ってたら、結婚できないわよ!アンナは可愛いんだからもっと積極的に行かないと!)」
ふたりの恋愛模様を目の当たりにすると、自分も少し焦る気持ちが芽生える。だけど、まだ自分の生活に満足している今は、恋愛よりも仕事に心を傾けたい――そんな気持ちもまた、確かにある。
ベルがスマホを取り出し、舞踏会の話を見せてくれた。
「There is a ball where people related to education gather(教育関係の人が集まる舞踏会があるの)」
舞踏会――異国の華やかな響きに、胸が少し高鳴る。ドキドキと期待と不安が混ざった気持ちに、自分でも少し驚いた。
「This is a meeting place(出会いの場よ)」
エリーナの目が、いたずらっぽく光る。その瞬間、私は少しだけ、これからの自分の運命が変わる予感を胸に抱いた――そんな気がした。