まだ触れられたくて、でも触れたい。
舞踏会




「Does this look good?(これ、似合ってる?)」
「Does this look good! (とてもお似合いよ)」

数日後の夜、空は群青から黒へと沈み始め、街の明かりがぽつぽつと灯る時間。
私はエリーナたちと舞踏会に行くため、慣れないドレスに身を包んでいた。

舞踏会用のドレスなんて当然持っていないから、エリーナがラベンダー色のチュールロングドレスを貸してくれた。薄い生地が何層にも重なり、歩くたびに柔らかく揺れる。ベルは髪留めを貸してくれて、低めの位置でまとめたローシニヨンが首筋をすっきりと見せてくれる。鏡に映る自分は、見慣れた保育士姿の私ではなく、まるで別の誰かのようだった。

胸の奥が少し高鳴る。――こんな自分を、誰かが「綺麗」と思ってくれるだろうか。そんな期待と不安が入り混じった感情が、ドレスの胸元あたりにふわふわと漂っていた。

「My fiancée is coming today. I’ll introduce you(今日は婚約者も来ているの。紹介するわね)」

エリーナの言葉に頷きながら、舞踏会のホールへ足を踏み入れる。
そこは、まるで映画のワンシーンのような光景だった。高い天井に輝くシャンデリア、壁際のテーブルには色とりどりのグラスと料理、そしてドレスやタキシードに身を包んだ人々が談笑し、笑い声が広がっている。日本では絶対に味わえない空気――異国のきらめきが、私を包み込んだ。

「Jackson, over here(ジャクソン、こっちよ!)」
「Oh, Elina(おぉ、エリーナ)」

振り返ると、金髪に青い瞳を持った男性がこちらへ歩み寄ってくる。背が高く、立ち姿が絵になる人だった。エリーナと並ぶと、本当に美男美女だなと思う。

「Anna, I’ll introduce you. Fiance Jackson(アンナ、紹介するわね。婚約者のジャクソンよ)He’s a diplomat(彼は外交官なの)」
「I’m glad to meet you. Thank you for always getting along with Elina(会えて嬉しいよ。いつもエリーナと仲良くしてくれてありがとう)」

英語で挨拶を返したその時、ジャクソンの背後から、黒髪に黒い瞳を持つ高身長の男性が近づいてきた。
その瞬間、胸の奥がじわっと温かくなる――。この街で初めて見る日本人。たったそれだけなのに、どうしようもなく懐かしくて、会ったこともないはずなのに「やっと会えた」ような安堵感すらあった。

「Elina, Anna. I’ll introduce you to her colleague, Sion Ryusaki.(エリーナ、アンナ。紹介するよ、同僚の龍咲紫苑だ)」

――龍咲?
耳に覚えのある響きだった。菜央ちゃんの苗字と同じ……まさか。

「はじめまして、龍咲紫苑《りゅうさき しおん》と申します。杏奈先生……ですよね?」
「えっ?」
「菜央がいつもお世話になってます、龍咲菜央の保護者代理です」

ああ――やっぱり。
「こちらこそ、気づかなくてすみませんでした。改めまして千歳杏奈です」
「苗字は知らなかったな、千歳杏奈さんね。フルネームも可愛い」

その何気ない一言が、思いのほか胸の奥に響いた。
ウィーンに来てから、誰かに日本語で褒められることなんてなかったからかもしれない。日本語で交わす会話は、想像以上に心をほぐしてくれる。気づけば私は、いつもよりずっと積極的に話していた。英語の勉強をしてきたのに、自分からこんなに言葉を重ねたのは初めてかもしれない。


数日後。

「こんにちは、迎えに来ました」
「あっ、龍咲さん。菜央ちゃん呼んできますね」

舞踏会での会話以来、特に連絡を取ることもなく、関係はただの「先生と保護者代理」のままだった。
でも、名前を呼ばれた瞬間、心の奥で小さく弾ける感覚があった。

菜央ちゃんを呼びに行くと、彼女はすやすやと寝息を立てて眠っていた。
その安らかな寝顔を見ていると、無理に起こすのが少しだけ申し訳なく感じる。それでも龍咲さんを待たせるのも悪くて、そっと肩を揺らした。

「ん〜……アンナ先生?」
「お迎えが来たよ、菜央ちゃん」

出入り口まで走っていった菜央ちゃんは、「ママ!」と叫んだものの、目の前の龍咲さんを見るなりしゅんと肩を落とした。

「紫苑か〜……パパとママは?」
「今日も遅くなるんだよ、だから俺と帰ろう」
「え〜〜! やだ!」

菜央ちゃんはいつも「紫苑好き!」と言っているのに、今日はご機嫌斜めだ。
私は戸惑い、どうしたらいいか分からずに立ち尽くす。

「……どうしたら、一緒に帰ってくれる?」
「パパとママがいい!」
「でも、今は海のうえだよ」

そうだった。菜央ちゃんの父親はクルーズ船の船長、母親はその船の料理人。今は遠くの海の上――会えるはずもない。

「それに園も閉まっちゃうし、先生も帰っちゃうんだよ」

胸が少し締めつけられた。こういうのは家族の問題だから口を出すべきじゃないと思いながらも、菜央ちゃんの寂しさが痛いほど伝わってきた。

「I do not want to return! I want to eat mom’s omelet rice!(帰りたくない! 私、ママのオムライスが食べたい!)」

――オムライス。
そういえば、菜央ちゃんは前に「ママのオムライスは世界一!」と笑顔で言っていたっけ。きっと、あの味を思い出してしまったんだろう。

「Nao, I want to eat dinner with my teacher!(菜央、先生と一緒に夕食食べたい!)」
「……え?」

突然背後から声がして振り返ると、エリーナがにっこり笑っていた。
「That’s good! Please come to eat!(それはいいわね! ぜひ食べに行ってらっしゃいよ!)」

「Elina! That’s no good(それはダメでしょ)」
「That’s not the case, leave it to me here(そんなことないわよ、ここは任せていってらっしゃい)」

あれよあれよという間にエリーナは私の荷物を持ってきて、「色気ないわね」と小声で茶化す。
色気なんて、保育の仕事に必要ないのに――でも、なぜかその一言で耳の奥がじんわり熱くなった。

「Then have fun. Have a nice day(じゃあ、楽しんで。ごきげんよう)」

エリーナはウインクして去っていき、菜央ちゃんは嬉しそうに私の腕を引いた。
「杏奈先生、今日は一緒にご飯食べよ!」
「う、うん」
「紫苑、早く帰ろ!」

さっきまで「帰りたくない」と言っていたのに、この変わりよう。思わず笑ってしまう。

「すみません、先生。先生さえよろしければ菜央に付き合っていただけませんか?」

困っている龍咲さんと、期待に目を輝かせる菜央ちゃん――その両方を見て、私は断れるはずもなく、静かに頷いた。


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