調香師の彼と眼鏡店の私 悩める仕事と近づくあなた
  小笠原の運転する青いSUVの助手席で、紗奈は身を縮めていた。

「本当にすみません! 送っていただくなんてっ」
「雨で滑ってまた転んだらと思うと心配で。それに……もう少し亀井さんとお話ししたくて」
「へ? ど、どうしてですか?」

 含みがある笑みを浮かべた小笠原は、店員モードが抜けていた。気さくな雰囲気に、紗奈の緊張がほんの少しだけほぐれていく。

「ほら、キャリアの話を話してくれたでしょう? 実は僕も似たような事で悩んでいたことがあるんです。この店に勤める前の話ですけど」
「え!?」

 思いがけない話に、紗奈は身体ごと彼の方を向いた。

「その時、小笠原さんはどうしたんですか?」

 前のめりに尋ねる。紗奈は知りたかった。少しでも近い境遇の人の意見が。
 そんな紗奈の気持ちを知ってか知らずか、小笠原はのんびりと口を開いた。

「以前、香料メーカーで働いていたんです。調香が好きで、ずっとこの仕事を続けるのだと思っていました。ですが、歳を重ねるにつれて立場が上がり、気がついたら調香よりも職場のマネジメントが仕事になっていました。僕はそれに耐えられなくなってしまったんです」
「そんなことが……」

 ザーザーと雨音が響く車内で、紗奈は小笠原の話に聞き入った。
 信号が赤になると彼は紗奈の方を見た。懐かしむように目を細めている。

「そんな時、友人に誘われてこの店を始めたんです。悩みましたけど、やっぱり調香が好きだったから」
「すごいです。会社を辞めてお店を始めるなんて」

 紗奈が感嘆の声をあげると、小笠原は少し苦笑いをした。

「でも……結局同じことだったんです」
「え?」

 信号が青に変わり、小笠原は前を向いてしまった。
 彼の横顔はどこか寂しそうに思える。黙って小笠原を見つめていると、彼は再び口を開いた。

「ありがたいことに売り上げが好調で、二店舗目の計画があるんです。友人からはマネージャーになってくれないかとお願いされました。結局、同じ問題が待ち受けていたんです」

 笑いながら「おかしな話でしょう?」と言われて、紗奈は何も言えなくなってしまった。
 雨音だけが二人の間に流れている。

「……どうするんですか?」

 そっと尋ねると小笠原はカラカラと笑った。

「どうしましょう? 僕も決めかねています。だから亀井さんのお話を聞いて、つい話したくなってしまったんですよね。ははは」

 小笠原があまりにも面白そうに笑うから、紗奈も「小笠原さんの話が聞けて良かったです」と返しながら微笑んだ。

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