ひと夏の経験、五つの誘惑
「ねえ、先生。ここ、分かんない。」

顔を上げると、机越しにこちらを覗き込んでくる水橋神奈がいた。

成績は芳しくなく、授業中も友達と恋話で盛り上がっているタイプだ。

真面目にノートを取る姿なんて、ほとんど見たことがない。

「水橋、もっと勉強しろ!」

ため息まじりに言いながら、答案用紙をくるくると丸め、軽く彼女の頭をポンと叩く。

「だってえ……」

唇を尖らせるその顔は、反省しているようで全然していない。

「だってじゃない。夏休みなんてあっという間なんだぞ。」

そう言いながら、つい説明に熱がこもる。

気がつけば神奈はペンを握ったまま、じっと俺の顔を見ていた。

視線が合うと、ふっと笑う。

「……何だよ。」

「ううん、別に。」

その意味深な笑みに、胸の奥がわずかにざわつく。

気がつけば、教室の窓の外はすっかり暮れていた。

「やべ、もうこんな時間か。」

時計の針は夜を指している。

補習が終わる頃には生徒は皆帰っているはずだが、この日だけは、神奈と俺だけが静まり返った教室に残っていた。
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