根暗な貴方は私の光
 一足先に食べ終わった紬は、未だ木箱に料理を食べさせようとしている母から目を逸らして食器を片付ける。
 水道も無ければ洗剤も何も無い貧乏なこの家で食器を洗うことなどほとんど無いに等しかった。
 この日もまともに食器を洗わず台所の隅にまとめて置いておく。時折、母がその状態に文句を垂れる時があるが紬は無視を貫き通していた。
 こんな貧乏な生活をしないといけなくなったのも、母が狂ったのも、父が死んだのも全て戦争のせい。
 戦争さえなければ自分は夢を追えたのに。父と母といつまでも平穏な日々を過ごせたのに。学校を休む必要もなかったのに。
 いつも考えるのは戦争に対する憎しみばかりだった。

「お母さん、そろそろ寝る時間よ。お父さんも眠いんじゃない? お布団敷くからお箸を置いて」
「……ええ、そうね。眠い、わよね……あなた」

 台所から畳張りの部屋へと移動し、襖を開けて布団を取り出す。部屋の真ん中には二人の布団を敷いて、その内の一つに母は横になった。
 もう一つの布団は父の分である。母は抱えていた木箱を空いている布団の上に置き、丁寧な手つきで掛け布団を被せた。
 
 嗚呼、やはり狂っている。この家はおかしい。

 物でしかない古い箱に布団を被せるなど正気の沙汰ではなかった。精神を病んでいるなんて一言では言い表せられないくらい、今の母は頭がおかしくなっていた。
 そしてそんな母を叱ることもせず、当たり前のように受け入れている紬自身も狂っていた。

「……おやすみなさい、お母さん」

 かつての母は、美人で優しくて紬にとって理想の女性だった。いつか理想の殿方と結ばれて家庭を築いた時、母のような女性になりたいと思った。
 それくらい理想で大好きな母だった。

 けれど、けれど。

 今、目の前で眠っている母はあの頃の面影を微塵も見せない。皺だらけの老婆のような顔、毎日涙を流すことで腫れた両目、木の枝のように骨が浮き出た細い腕。
 赤の他人のように見えた。見ず知らずの老婆が目の前で眠っている。
 実の母親であるはずなのに、母の寝顔を見ているとそう錯覚してしまいそうだった。

「……ごめんなさい、お母さん」

 そっと音を立てないように障子を閉じる。母との関係を断ち切るように、現実から自身を切り離すようにそっと。
 もう、限界だった。
 
< 10 / 93 >

この作品をシェア

pagetop