根暗な貴方は私の光
 それからだろうか。母の瞳に紬という一人の娘であり人間の姿が映らなくなったのは。

「ああ、どうして……どうして私達を置いて行ったの………」

 見知らぬ軍人が母に木箱を渡したあの日から母はおかしくなってしまった。
 あの軍人が渡してきた木箱を父の仏壇の前で抱えて独りでに何かを呟く。時に涙を流し、時に発狂し、時に笑う。
 何度も医者に見せた。毎日顔を合わせている紬にとって、今の母は心の負担でしかなかったのだ。見ているだけで気がおかしくなる、きっと病気のせいだと信じて今日も医者を家に呼んだ。
 けれど、何度医者に母の惨状を見せても、彼らが言うのは「これは治せない」の一点張り。
 母は四六時中あの木箱を抱えていた。医者が検査をしている間、紬が八百屋の店番をしている間、食事の間、全ての時間で母は木箱を抱えていた。
 木箱を父だと思っているのだ。

「お母さん、お昼にしましょう。お父さんもお腹空いているんじゃない?」
「……ええ、そうね。お腹、空いたわよね……あなた」

 母は何とも都合の良い生き物だった。紬が「その木箱は父ではない」と言うと、鬼の形相で怒り狂う。それなのに紬もその木箱を父のように扱うと途端に機嫌が良くなったのだ。
 正直、面倒くさかった。
 それでも母が父から離れられないように紬も母から離れられなかった。だから、今日も母と父と三人で食事をする。
 この日も紬が用意した料理を母は抱えている木箱に食べさせようとした。母が狂い出した頃は思わず止めた行動も今では慣れたもので止めることもない。
 人形遊びをするように木箱に料理を押し付ける母を横目に紬は自身の食事に集中した。

 ご飯の味がしない。

 どれだけ味付けを濃くしても量を増やしても減らしても、舌が無くなってしまったように味が分からないのだ。
 母だけではない。紬も狂ってしまった。
 おかしいのは母だけではないのだ。父が死んだことを理解しているのに、母が抱えている木箱に本来であれば父の遺骨が入っているはずなのに入っていないことを理解しているのに。
 紬もまた母と同じで父が生きているように扱っているのだ。
 何度だって否定できた。何度だって母を地獄に叩き落すことができた。絶望を植え付けて現実を知らしめることができた。
 でも、そうしないのは独りになると知っていたからだ。
 母がいなくなれば自分は独りになる。贅沢に女学校に通って友達に恵まれていた紬にとって孤独とは得体の知れない恐怖でしかなかった。
< 9 / 93 >

この作品をシェア

pagetop