根暗な貴方は私の光
 玄関に座り込んで当たりに散らかった荷物を鞄の中に詰めていく。服は普段来ている女学校の制服ではなく、ツギハギだらけの引っ張りという上着とモンペであった。
 ほんの数日前まで自分は花のような学生生活を送っていたはずなのに。可愛らしい制服に身を包んで、髪を束ねて身なりを整えて。
 同じ学校の友達がいて何気ない世間話で笑えていたはずなのに。
 
(泣くだけ無駄。もう、あの頃には戻れないんだから……)

 今にも溢れ出しそうになる涙を無理矢理堪えて荷物を鞄の中に詰める。丁寧さなど無く、物と物の隙間に力付くで物を詰め込んだ。

 数日分の着替え、少量の現金、他に必要なものは……。

 物が無くなって閑散とした玄関には、見窄らしい見た目をした一人の女しかいない。紬は重い鞄を肩から下げると一度も後ろを振り返ること無く家を飛び出した。
 これは彼女なりの抵抗だったのかもしれない。精神を病んでおかしくなってしまった母を養うことに疲れ、自分自身の自由を追い求めた彼女なりの抵抗。
 家を出て町に繰り出すとやけに息が吸い易かった。空気が美味しいと感じることが本当にあるのかと微かな驚きすらある。
 自分はどれだけあの家で薄汚れた空気に触れていたのかと今になって思えば恐ろしさすら感じた。
 けれど、自分は今雲一つない晴天の下にいる。何もかもを捨てて自分自身の幸せを優先して家を出た。

「……これで、やっと」

 これでやっと自由になれる。

 そう言おうとした直前で言葉が詰まった。
 本当にこれで自由になれたのだろうか。まだ生きている母を残して家を出て、行く宛なんて何処にもないのに独りになっていいのだろうか。

「私は……私、は……」

 言葉を紡ぎ出そうとしても開いた口からは何も生まれてこない。ただ、空気と共に微かな声が溢れるだけだった。
 一体いつぶりに見るのか分からない空を見上げる。
 皮肉に感じるほどに綺麗な青空だ。微かに感じるそよ風は、花か何かの甘い香りを乗せている。

 春風。桜舞う季節。
 夢を捨て、明日を捨て。

 私は私の幸せのために一歩を踏み出す。誰にも干渉されず、誰にも邪魔されない。

 神様、どうか愚かな私めをお許しください。家族を捨て、我が儘に従って非道に進む私をどうか、どうか。

 一枚の桜の花びらが目の前に舞い落ちる。手を伸ばせば指の間をすり抜け地面に零れ落ちた。
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