根暗な貴方は私の光
 不安と焦りが募る。目の前で繰り広げられていたいざこざは徐々に勢いを増し、彼らの会話する声は大きくなる。
 台所にいる紬達ですら彼らの様子がおかしいことくらいはすぐに察せた。
 あれだけ愛おしげに優しく蕗を抱き締めていた仁武が蕗の細い腕を掴んでいる。その目に優しさなどあるはずもなく、怒りが滲んだ鋭い瞳で蕗を見ていた。
 やはり様子がおかしい。止めに入るべきだろうかと考えを巡らせるが、何も解決策は思いつかなかった。
 解決策ではなく、ある言葉が紬の脳内を支配する。

「疫病神って言った?」
「え、何?」
「仁武くん、今、疫病神って言ったわよね」

 今にも台所を飛び出さんとする紬の腕を掴んでいた友里恵は、怪訝な面持ちで問い返した。
 問われた紬は視線を仁武達に向けたまま独りでに語る。

「疫病神って、もう何年も昔に流行った噂でしょう? 持病も何も持っていない人が突然死をしたっていう」

 疫病神の噂はかつてこの町に住む人であれば誰でも知っているものだった。誰が流したのかも何が根源なのかも分からない。
 そんな根も葉もない噂が一時期だが町人を恐怖に陥れたのだ。
 今更になって何故その噂が話題に挙がるのか分からない。だが、確かに紬の耳には仁武の声で疫病神と聞こえた。
 そして、その疫病神とやらは話を聞いている限り蕗のことを指している。
 いつの日か、幼い少女のことを疫病神だと思った愚かな人間がいた。
 あの時は見窄らしい見た目からそう思ったが、今では見た目ではなく彼女の背景を知ったからこそそう思う。

「蕗ちゃんが疫病神なの?」

 顔色の悪い青年が一足先に店を去り、しばらく仁武と蕗の言い争いが店内に響いた。
 何もできずただその言表を意を傍観し、仁武が帰ったのを見計らって紬は台所を飛び出した。
 入口の方を見つめたまま呆然と立ち尽くす蕗の小さな後ろ姿を見て、喉元まで出かかってい言葉を飲み込む。
 聞けるはずがなかった。到底、「貴方が疫病神なの?」と聞けるはずがなかった。

「蕗ちゃん……」

 小さな肩が小刻みに震え、その震えを見ているだけで紬自身の身体も震えを発した。
 自分よりも年下で小柄な少女が今は恐ろしくてならないのだ。
 もし、あの噂が本当ならば。本当に疫病神がこの町にいるのなら。

 この少女は人殺しということになる。
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