根暗な貴方は私の光
 学校帰り、家の前で見知らぬ男の人が両親と何か話していた。やけに張り付いた空気が頬を刺して、正直に言って彼らの間に入りたくはなかった。だから自宅の影に隠れて、彼らの会話を盗み聞いた。

五十鈴高志(いすずたかし)さんですね。おめでとうございます」

 男の表情はよく見えないため、彼がどのような表情を浮かべているのかは分からない。
 声は低く沈んでいて、父の名前を呼んでいる割には知り合いではないようである。それに「おめでとうございます」とは一体どういうことなのだろうか。
 顔だけを覗かして玄関先を見やると、軍人らしき男が立っていて何か赤い紙を玄関口に立つ父に渡していた。

 え、赤い紙?

「ああ、とうとう俺もお国のために……」

 全身から血の気が引いていく。父と母の泣いているような喜んでいるような微妙な声が聞こえて、その場に立っていられなくなった。
 口元を手で覆って、吐き出しそうになるのを我慢して、ただ、現状の理解に務めた。

 赤紙だ。父の元に赤紙が届いた。戦争に駆り出される兵士になるため、父は選ばれた。

 信じたくない。信じられない。けれど、自分と母は父に対して「おめでとう」と言わなければならない。それ以外のことを口にしてはいけないのだ。
 嫌だ。そんなの嫌だ。父が戦争に行ってしまうなんて、ずっと大好きで可愛がってくれた父がいなくなってしまうなんて。

 どうして、父なのだろう。どうして、父でなければならなかったのだろう。

 最早、嗚咽を零すことすらなかった。ただ溢れてくるのは、深い絶望と何もできない自分の非力さに対する憎しみだった。

「あら、紬。そんなところで何をしているの?」
「お、お母さん……」

 玄関から覗き込むようにして紬を見つけた母は、いつもの穏やかな微笑みを浮かべている。
 普段の紬であれば、母と共に笑って父の元に向かったことだろう。
 けれど、この時ばかりは到底笑えなかった。現実の理解に苦しんでいて、それ以外のことに意識を向けるなんてことができなかったのだ。

「そんなところにいないで、早く店のお手伝いをしてくださいな。そろそろご贔屓にしてくれてるお客さん達が来てしまうわ」

 どうして、母は笑っているのだろう。どうして、笑っていられるのだろう。

「ええ、すぐに準備するわね」

 どうして、自分は笑っているのだろう。どうして、笑っていられるのだろう。

 狂っている。自分も母も。皆、狂っている。
 けれど、そう言葉にできる者はこの世界の何処にもいない。ただ、目の前の現実に無力にも従うしかないのだ。
 
「お父さん……」

 玄関先で母を待っていたらしい父のあの時見た穏やかな微笑みが今でも消えることはない。
 この日、ずっと当たり前にあると思っていた日常が壊されたのだ。
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