根暗な貴方は私の光
 父が出征する日の朝、紬は激しい頭痛と倦怠感に襲われ床に伏せていた。
 八百屋を営んでいたこともあり、紬の父は町でも名の知れた有名人だった。だからか、家の前には父を見送る大勢の人が集まっている。
 そんな町人達を紬は部屋の窓から見下ろすだけであった。
 別れを告げるのが怖かった。もう二度とあの大きな手で頭を撫でてくれることがないのだと思う度に、足が竦んで声が出なかった。

 父が大好きだった。幼い頃から一人っ子だったということもあり、父はいつも遊んでくれた。
 何処へ行くにも父と母、そして自分の三人だった。二人が右手と左手を握って三人で横に並んで町の中を歩く。
 家族で過ごしている時間が何よりも好きだった。滅多に喧嘩をしない父と母は仲睦まじい夫婦で、紬自身も両親に叱られるなんてことはほとんどなかった。
 しかし、そんな温厚で優しい母も今朝方だけは紬を叱りつけた。

『見送らない娘が何処にいるの』と。

 娘だからこそ、家族として愛しているからこそ、見送るなんてできない。
 母だってそう理解しているはずなのに泣きそうになるのを必死に我慢して、自分の娘に怒鳴ってでも自分の愛する夫を見送る。

「紬! 下りてらっしゃい!」

 いつもの優しくて綺麗な母の声ではなく、怒りと悲しみがない混ぜになった鋭い声が聞こえた。頭が痛くて身体がだるくて動けないと言ったはずなのに。
 返事もろくに返さず布団に丸まって時間が過ぎることを待った。もう一度眠って明日になれば、また父が頭を撫でてくれると信じて。

「紬」

 次に聞こえたのは母の声ではない。父の低くて重々しく、けれど優しさがある温かい声。

「達者でな」

 嗚呼、行ってしまうのか。本当に皆を置いて行ってしまうのか。
 せめて最後くらい顔を見せてやれば良かっただろうか。いや、見せてやれば良かったなんて上から目線過ぎる。
 最後くらい、父のあの穏やかな微笑みを見るべきだっただろうか。
 皆の声が遠退いて行く。父が行ってしまったからなのか、それとも皆が声を上げることすらもできなくなったからなのか。
 最早、そんなことすらどうでも良かった。
 ただ、悲しかった。寂しかった。
 行かないでと言えない現実が苦しくて、見送ることが何よりも幸福であると洗脳してくる世界が嫌いで。

 愛していたからこそ、別れを告げたくはなかった。
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