根暗な貴方は私の光
 一家の大黒柱が家を出てから長い年月が過ぎた。父がいない生活が当たり前になりつつあった頃。
 八百屋で店番をしていた母の元に見知らぬ男が訪ねてきた。傷だらけで薄汚れていて、一目見ただけでは見窄らしいという印象を受ける男。
 しかし、彼が身に纏っていたのは出征した父が着ていたもの同じ枯草色の軍服だったのだ。

「どちら様?」

 母が声を掛けても男は何も言わない。軍帽の庇で顔を覆い、その素性を隠している。
 不審に思った母は、奥の自宅から様子を伺っていた紬に部屋の奥へ行くよう促した。突然この男が暴れても紬には被害がないようにと思った母なりの気遣いだったのだろう。
 一度は部屋の奥に身を隠した紬だが、すぐにその後が気になって母に気づかれないように八百屋の方へと近づく。

「これを貴方様に……。どうしても、渡したくて」

 ようやく口を開いた男は震えた声でそう言って、何やら古い木箱を母に手渡した。
 母は震える手でその木箱を受取る。紬には母の後ろ姿しか見えないため、何を思ってどのような表情を浮かべているのかは分からない。
 ただ、その木箱は決していいものではないということだけは分かった。初めはただの憶測に過ぎなかったが、次の瞬間にはその憶測が確信へと変わる。
 受け取った母は木箱を開けること無くその場に崩れ落ちたのだ。紬には何が起きているのか理解できなかったが、母は木箱を抱き締めて嗚咽を漏らし始める。
 母の鳴き声が室内に響き渡った。

「ああ、そんな……そんなぁ………」

 泣き喚く母の前に膝を折った男は、軍帽を外して頭を下げた。どうして頭を下げるのかなど紬には理解できるはずもない。
 ただ、店の奥から涙を流す母の後ろ姿と窶れた表情の男を見ていることしかできなかった。
 軍人の男がその場を去った後も母は木箱を抱き抱えたままひたすらに泣き続けた。部屋から店に降り立った紬は、蹲って小さくなった母の肩に手を乗せる。
 突然触れられた母は子供のように怯えを見せて、紬の手から逃れようと退いた。
 涙でぼろぼろになった顔を上げた母は、いつもの優しい母ではなかった。目の前の存在の全てが恐ろしく、すべての物事に怯えを見せる子供のよう。
 光を失った母の瞳に紬はもう映ってはいなかった。
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