もう恋なんてしないはずだったのに〜御曹司課長の一途な愛に包まれて〜
渡瀬部長は昇進してから今まで以上に忙しくなった。朝から会議に呼ばれ、昼は外出、夜は接待に顔を出す。出張に行く頻度も段違いに増えた。
新しく課長に昇進した松木さんが仕切っているが、部長のデスクが空席のままなのを見かけるたび、胸は小さく沈む。そんな自分の感情に戸惑いながらも、仕事を必死にこなすしかなかった。少し前までは当たり前にあった「日常のやり取り」がなくなって、ただそれだけで、フロアの空気が妙に静かに感じられた。少し前までは部長が隣にいなくてもなんとも思わなかったはずなのに。
今は、ほんのちょっとした雑談さえできないことが、胸の奥をきゅっと締めつける。
(私……こんなふうに思うなんて、どうかしてる)
自分で自分に驚きながら、無理やり仕事に集中しようとするが何度画面に向かっていても、気づけばいつのまにか空いたデスクに視線が吸い寄せられてしまうのだった。
そんな毎日がしばらく続いたある日、仕事を終えて会社を出ると、ちょうど部長も出てくるのが見えた。

「……お疲れさまです」

思わず声をかけると、彼は少し驚いたように目を細めた。けれど次の瞬間には、仕事中には見せない柔らかな笑みを浮かべていた。

「おお、花菱さん。もう上がりか? 駅まで一緒に行こう」

ただそれだけの言葉なのに、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
会社の中では、立場の違いを急に意識してしまって声をかけづらくなってしまった。でもこうして外に出てしまえば、部長は少し砕けた調子で話しかけてくれる。その温度差に戸惑いながらも、足取りは自然と軽くなっていた。

「最近、忙しそうですね」

「まあな。会議ばっかりだ。正直、机に座ってる方がよっぽど楽だ」

少し疲れたように肩をすくめる仕草。
その表情は、部下である私たちに見せる「隙のない上司」とはまるで違っていた。

「課長でも、そう思うんですね」

「当たり前だ。俺だって人間だぞ」

冗談めかしてそう言う声が、妙に耳に残る。
気づけば歩調を合わせて並んでいることが、なんだかくすぐったい。
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