もう恋なんてしないはずだったのに〜御曹司課長の一途な愛に包まれて〜
二人は並んで座り、定番の焼き鳥盛り合わせやポテトサラダを頼んだ。ジョッキを合わせた瞬間、不思議な居心地の良さを感じていた。
話題は仕事のことから始まり、やがて少しずつプライベートに踏み込んでいく。

「花菱さんは、休みの日はどうしてる?」

「えっと……家でDVDを見たり、推しのライブ映像を見たり、です」

「推し、か。それは期待を裏切らない答えだな」

そう言うと部長は目を細めていた。その視線には、からかう色は一切なかった。

「前にも言ったけど……それ、いい趣味だと思うよ。頑張る力になるんだろ?」

「……はい」

「実は俺も学生の頃はよく友人とバンドを追いかけてた。遠征もした」

「……えっ、部長が?」

 驚く日菜に、橘は照れくさそうに笑う。

「社会人になり、そんなこともしていられなくなった。でも、誰かを好きで、その存在に救われるのは悪くない。君がそれを大事にしてるのも、俺はいいと思う」

私の胸が、じんわりと温かさで満たされていく。
噂される御曹司の顔でもなく、冷静沈着な上司の顔でもない。目の前にいるのは、ただのひとりの人で、自分の気持ちに真っ直ぐに寄り添ってくれる人。
箸を進めながら、橘はふと真剣な表情を見せた。

「……俺は、立場上いろいろと見られることが多い。でも、肩書きとか家柄とかよりも、大事にしたいものがある」

そこで一度、視線が私はを捉える。
柔らかな眼差しに射抜かれて、息が止まった。

「それは、目の前の人が笑っていられること。……君が、そうであってほしい」

不意に頬が熱を帯びる。返す言葉が見つからず、グラスを両手で握りしめる。店内のざわめきや笑い声が遠のき、心臓の鼓動だけが大きく響いていた。
――この人は、御曹司なんかじゃない。私にとっては、ただ……。
そう心の中で呟きかけて、慌てて思考を打ち消した。

「あの、私はそんな、特別な人間じゃないです」

かろうじて絞り出した声に、部長は穏やかに微笑んだ。

「特別じゃなくていい。無理に背伸びする必要もない。俺は花菱さんがそのままでいるのが一番いいと思う」

その言葉に、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
努力を強いられ、必死に背伸びしてきた過去の自分。それを知っているかのように、やさしく否定してくれる。
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