もう恋なんてしないはずだったのに〜御曹司課長の一途な愛に包まれて〜
帰り道。居酒屋を出て夜風に吹かれながら並んで歩く。
会社帰りのサラリーマンたちの笑い声がそこかしこから聞こえてくる。

「今日は楽しかったな」

ふと自然に漏れ出た声にハッとした。隣にいる部長になんと思われたのか恥ずかしくなり俯いてしまった。隣を歩く部長は相変わらず背筋を伸ばし、会社にいる時と変わらず凛々しいのに私はヘラヘラとこんなことを口にしてしまった。居酒屋での気さくな笑顔や気配りの言葉がまだ頭に残ってしまっていて、いつもより近い存在に思えてしまった。

「それはよかった」

部長は微笑みながら答えた。その声は落ち着いていて私の胸の奥を優しく撫でるようだった。
ほんの少し沈黙が続く。普段の自分ならこうした静けさに気まずさを感じるはずなのに、今は不思議と嫌じゃない。むしろ言葉を交わさなくても伝わる安心感があった。
ふと気がつくと部長が歩道の外側を歩いていた。何気ないことなのに彼がさりげなくそうしてくれているのがわかる。心臓が強く脈打つのを感じる。
気を抜けばその気持ちが顔に出てしまいそうで部長の顔を見れない。

「部長は……」

言いかけて、言葉を飲み込む。“御曹司”だなんて噂があることは、もちろん知っている。でも、それを本人に尋ねるのは違う気がした。
今夜、庶民的な居酒屋で笑ってくれた彼は、少なくとも“遠い世界の人”じゃなかったから。

「……なんでもないです」

「そうか」

部長は深く追及することなく、静かに笑った。その余裕ある表情に、また心臓が跳ねる。会社では、いつも淡々としていて、どこか距離を置いているような人。でも今は、歩く歩幅を合わせ、名前を呼んでくれて、さりげなく守ってくれている。
そのことに気づいてしまった以上、もう“ただの上司”として見ることはできない。それが少し怖くもあり、同時に心が温かくなる。
――私、この人の隣にいるのが好きなんだ。
言葉にならない思いが胸いっぱいに広がった。
夜の街は相変わらずにぎやかだったのに、並んで歩く時間だけは、静かで、やさしい世界に包まれているようだった。

 
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