もう恋なんてしないはずだったのに〜御曹司課長の一途な愛に包まれて〜
週明けの会議室。
マークスコーポレーションの重役たちが並ぶ席で、部長が営業と統括室への兼務が正式に発表された。それと同時に、社内に広まっていた創業家の御曹司であるという事実も、公然となった。

「……やっぱり、本当だったんだ」

休憩時間、同僚たちが囁き合う声が耳に入る。まさか、とは思っていたが頭の中の整理がつかない私は黙って手元の資料を整えた。
家に帰り、黒いスーツを脱ぎ捨てるようにハンガーへかける。
シャワーを浴び、ソファに倒れ込むと、すぐにリモコンに手を伸ばした。
テレビに映し出されたのは、推しグループ《ときめきスパイラル》の最新ライブDVD。
ステージの中央でまっすぐに歌う、ひかるくんの姿。
――「迷わないで。君の選ぶ道が、正しいんだ」
歌詞が耳に届いた瞬間、胸が熱くなった。
今日一日、心の奥で渦巻いていたざわつきが、少しずつ形を持って押し寄せてくる。
渡瀬部長は出世しても変わらない態度で接してくれるのに、私は勝手に遠い存在だと思ってしまった。
御曹司かもしれない――そんな噂に振り回されて、不安になって。
それでも、彼が目の前にいるときの穏やかさは、本物のはずなのに。

「……私、なにやってるんだろ」

ぽつりと呟き、抱え込むようにクッションを胸に押し当てる。
元彼に捨てられたとき、もう恋なんてしないって決めたはずだった。
それなのに気づけば、彼の言葉ひとつ、視線ひとつに、心が揺れてしまっている。
でも、私は特別じゃない。ただの、地味で不器用な、平凡な社員。
自分に言い聞かせても、ライブ映像のひかるくんの笑顔が否定するようにまぶしくて、涙がにじんだ。
推しは遠くにいる。でも、推しの声は、ちゃんと自分を支えてくれる。

「努力してきた自分を、バカにしちゃだめ」
 
まるでそう言われているみたいだった。クッションを強く抱きしめ、目を閉じた。
明日もまた会社に行く。
部長の顔を見る。
ざわつく気持ちは簡単には消えないけれど、それでも――。

「……大丈夫。大丈夫、私」

小さな声でそう繰り返し、DVDの中で輝く推しを見つめながら、自分を落ち着かせた。
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