旦那様は公安刑事

第二章 すれ違いの予感


 朝のテーブルに、湯気の立つスープと焼きたてのパン。
 美緒はいつものように皿を並べ、ふと手を止めた。玄関の小物入れに、銀色の輪が置かれている。結婚指輪だ。

「悠真、指輪……忘れてるよ」
 洗面所から戻ってきた夫に声を掛けると、彼は一瞬だけ目を伏せ、柔らかく笑った。
「現場で引っかけると危ないんだ。今日は移動が多いから、帰ってきたらまたつけるよ」

 言い訳、ではない。きっと本当なのだろう。
 それでも、美緒の胸の奥には、小さな空洞がふっと開く。
 危ない、という言葉の輪郭だけが、食卓のぬくもりから浮いていく。

「夜は……一緒にごはん食べられる?」
 パン屑を払うふりをしながら尋ねる。
「できるだけ早く上がる」
 悠真はタイピンを整え、いつもの穏やかな笑みを作る。作る――その微細な努力の気配に、美緒はなぜだか気づいてしまう。
 なぜ笑顔は、ときどき置き場を間違えたみたいに見えるのだろう。

「いってきます」
「いってらっしゃい。気をつけて」

 扉が閉まる。テーブルの上で湯気がしずみ、静けさだけが残る。
 指輪は小物入れで微かな光を跳ね返している。美緒はそれを指先でそっと撫で、引き出しを閉めた。

     

 昼下がりのカフェ。ガラス越しの陽射しがテーブルに木漏れ日のように落ちている。
 友人の遥と菜摘が、新色のネイルを見せ合いながら笑っていた。

「でさ、美緒んとこは新婚半年だっけ? 相変わらず仲良し?」
「うん、まあ。忙しそうだけど、やさしいよ」
「刑事さんだっけ。すごいね」
 菜摘がストローをくるくる回し、意味ありげに眉を上げる。
「でも、忙しいって便利な言葉だからさ。……ごめん、変なこと言った。心配させたいわけじゃないんだけど」
「大丈夫。わたし、疑ってないし」

 即答したのに、自分の声が薄く震えているのがわかった。
 遥が静かに言う。「警察官の奥さんって、覚悟いるよね。うちの叔父がそうだったから、なんとなくわかる。言えないこと、多いんだって」
「言えないこと……」
 口の中で転がしてみると、途端に重たくなる言葉だ。

 帰り際、レジ横で買った焼き菓子を紙袋に詰めながら、美緒はふと携帯を見た。
《今日は本庁で会議。夜、遅くなるかもしれない》
 短いメッセージ。結婚前と同じ、簡潔な文体。
 “本庁”、という響きが胸の内で小さく跳ねる。どこで、誰と、どんな話を――そういう問いは、いつだってメッセージより長く、答えよりも先に広がる。

     

 その夜。
 煮込みハンバーグは、じっくり火を通すほど光沢を増すのに、食卓の椅子はふたつのまま。
 時計の秒針が、食器の影を静かにずらしていく。
 日付が変わる少し前、玄関の鍵の回る音がした。

「……起きてた?」
 コートを脱いだ悠真の頬には、うっすら疲労が滲んでいる。
「温め直すね」
「いいよ、自分でやる。美緒は休んでて」

 レンジの低い唸りに紛れて、ふいに鼻を掠めたのは、見慣れない匂い――消毒液と、どこか金属的な、冷たい匂い。
 病院帰り? いや、そんな連絡はなかった。
 聞けばいい。何があったの、と。
 喉元まで出かかった言葉は、彼の横顔に触れた瞬間、ほどけて消える。静かに食べる姿は、疲れと、守りの気配に包まれていた。

「週末、母の誕生日なんだ。顔、出せるかな」
 何気ない調子を装って訊ねる。
 悠真はスプーンを置き、少しだけ視線を落とした。
「調整してみる。……約束はできない」
「うん。わかってる」
 理解している、理解したい、理解したつもり――そのどれでもない沈黙が、ふたりの間に薄く積もる。

 食後、洗濯カゴからシャツを取り出す。
 袖口に、赤茶の、指先ほどの点がひとつ。
 トマトソース? それとも――。
 手早く洗剤を揉み込み、水に浸す。薄く泡立つ水面に、何かがほどけていく様を、じっと見つめてしまう。

     

 ベッドに入ってもしばらく眠れなかった。
 寝返りを打つたびに、隣の気配を確かめる。
 やがて微睡みに沈みかけたとき、枕元で短い振動音がした。

 ぱっと手を伸ばすより少し早く、悠真が起き上がり、携帯を掴む。
 部屋を出て、廊下へ。
 ドアの隙間から、押し殺した低い声が漏れる。
「……今は話せない」「いや、こっちは大丈夫だ」「合図があったら」
 要点だけを並べたような言葉。ナイフの刃のように、余計を削ぎ落とした音。

 戻ってきた彼は、ベッドに潜り込みながら「ごめん」とだけ言った。
 どんなごめんなのか、尋ねない。尋ねたら、何かが決壊してしまいそうだった。
 肩先に回された腕が、いつもより強く、確かだったことだけが、皮肉のように安堵を呼ぶ。

     

 翌朝。
 洗面台の端に置かれた小さな救急箱が、わずかに開いていた。
 中のテープが一本、減っている。
「切ったの?」
「ちょっと、机の角で。大したことない」
 袖口から覗く手首に白いテープ。
 昨日のシャツの袖口の点と、薄く繋がる線を、美緒は心の中でそっと切り離す。結び付けたら、怖くなる。

「今日は早く帰れる?」
「……努力はする」
 また同じ言葉。
 努力、という言葉は優しい。けれどその優しさは、具体的から少しだけ遠い。

 出勤の背を見送ってから、リビングに戻る。
 テーブルの上、昨夜の買い物袋に紛れていたレシートを何気なく広げた。
 芝公園のコンビニ、二十三時四十二分。家からは、電車で三十分以上。
 “本庁”はあの近くだっただろうか――地図の感覚を頭の中で辿る。
 何かの答えを得たいのではない。ただ、自分の心がどこに立っているのかを確かめたいだけだ。

 窓を開けると、風が入ってきた。
 カーテンを揺らし、テーブルの角を撫で、冷たい空気が胸の奥まで降りてくる。
 遠くでサイレンが鳴った。
 日常の音なのに、今日は少しだけ色が違って聞こえる。

 知らないことは、守られていることなのか。
 知らされないことは、信頼されていないことなのか。
 答えのない問いが、朝の光の中で形にならない影を落とす。

 指輪は、まだ小物入れの中で静かに眠っている。
 夜、帰ってきたら、またその指に収まるのだろう。
 それまで――この小さな棘と一緒に、わたしは今日を過ごす。

 知らなくていい、は愛の言葉なのか。
 それとも、嘘のはじまりなのか。
 美緒は目を閉じ、深く息を吸った。次に目を開けたとき、視線の先には、昨日と同じリビングがある。
 同じはずの場所で、同じではない予感だけが、静かに膨らんでいくのだった。
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