旦那様は公安刑事

第六章 公安刑事の正体

 夜のリビングには、ランプの淡い灯りだけが揺れていた。
 美緒は手を固く握りしめ、目の前の夫を見つめる。悠真はスーツ姿のまま、ソファに深く腰を下ろしている。普段ならすぐにシャワーを浴びて着替えるのに、今夜は違った。
 彼の沈黙は、何よりも雄弁だった。

「悠真……お願い。教えて。わたし、もう怖いの。あなたが何をしているのか知らないままでいる方が、もっと」

 必死の訴えに、悠真は長い沈黙の後、ゆっくりと視線を上げた。
 その瞳は、どこか決意を宿している。

「……俺は刑事だ。だが、普通の捜査一課や生活安全課じゃない」
 低く落ち着いた声が響く。
「俺は、警視庁公安部の刑事だ。国内のスパイやテロリストを追っている」

 公安――。
 その二文字が現実として突きつけられた瞬間、美緒の心臓は大きく跳ねた。
 ニュースでしか耳にしたことのない世界。
 まさか、自分の夫がそこに身を置いているとは思いもしなかった。

「どうして……隠してたの」
「言えない決まりだからだ。公安の存在は公表できないし、家族にすら詳細は話せない」
 悠真の声には悔しさが混じっていた。
「お前を守るためにも、秘密にしておくしかなかった」

「守るって……わたし、もう狙われてるのよ?」
 声が震える。
「あなたのせいで……!」

 吐き出した瞬間、美緒は唇を噛みしめた。
 本当は責めたいわけじゃない。
 ただ、恐怖と不安が言葉を歪めてしまった。

 悠真は顔を歪め、手を握りしめる。
「……そうだ。お前を危険に巻き込んでしまった。だからこそ、絶対に守る」

 その瞳には嘘がない。
 けれど、美緒の胸に渦巻く恐怖は簡単には消えなかった。

「これから……どうなるの?」
「組織が動いている。俺はその中枢を追ってる。やつらは手段を選ばない。だから――お前も狙われた」

 言葉が凍りつく。
 愛する人の隣にあるのは、思っていた以上に遠く、冷たい現実だった。

 美緒は目を伏せ、呟くように言った。
「……普通の奥さんでいたかった。普通の生活がしたかったのに」

 悠真はゆっくりと立ち上がり、彼女の手を取った。
「普通じゃない生活をさせてしまっている。でも……美緒、お前がいなければ俺はやっていけない」

 彼の手は固く、熱を帯びていた。
 その温もりが真実なのか、それともまた新しい秘密の始まりなのか――美緒にはまだ分からなかった。

     

 その夜。
 眠れずに窓辺に立った美緒は、街の灯りの向こうに潜む影を見つめた。
 公安刑事の妻になった自分。
 それがどれほど危うい場所に立たされているのか、少しずつ理解し始めていた。

 そして、その影は――翌日、さらなる形をもって迫ってくることになる。
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