旦那様は公安刑事
第七章 狙われる妻
昼下がりのスーパー。
美緒は野菜をかごに入れ、献立を考えながら通路を歩いていた。
けれど心は晴れない。悠真が公安刑事だと知って以来、日常の景色はどこか薄い膜をかぶったように見えていた。
――普通の生活に戻りたい。
そう願う気持ちとは裏腹に、背後にまとわりつく視線のような違和感は、日ごとに強くなっている。
レジを済ませ、エコバッグを肩にかけて外に出た瞬間。
視界の端に、数日前に見かけた無精髭の男の姿が映った。
心臓が大きく跳ねる。
――やっぱり、気のせいじゃなかった。
慌てて歩を速める。だが男も距離を縮めてくる気配がした。
エレベーターに飛び込み、階数ボタンを連打する。
ドアが閉まりかけたその瞬間、分厚い手が隙間に差し込まれた。
無理やりこじ開けられ、男が乗り込んでくる。
「奥さん、ちょっと話を聞いてもらおうか」
低い声。濁った瞳。
美緒は反射的にバッグを抱きしめ、一歩後ずさった。
「……どなたですか」
「旦那さんのせいで、アンタも危ない立場なんだよ」
喉が凍りつく。
逃げ場のない狭い箱の中で、恐怖だけが膨らんでいった。
そのとき、エレベーターが不意に停止した。
ドアが開くと同時に、背広姿の悠真が立っていた。
彼の目は鋭く、銃口のような冷たい光を帯びている。
「……手を放せ」
低い声に、男の肩が一瞬震えた。
「ちっ……」
舌打ちを残し、男は美緒を突き飛ばして逃げ出した。
美緒の身体をしっかりと抱きとめ、悠真は周囲に視線を走らせる。
耳に小さなイヤホンを差し込み、すぐさま無線で指示を飛ばした。
「対象を確認。至急確保に入れ」
その声音は、家で見せる夫のものではなかった。
冷徹で、命令を下す公安刑事の声だった。
マンションの部屋に戻ると、美緒の膝は震えて立っていられなかった。
ソファに座らされ、冷たい水の入ったコップを手渡される。
指が震えてうまく持てない。
「ごめん……巻き込んでしまった」
悠真はそう言って、彼女の肩に手を置いた。
その表情には深い罪悪感が刻まれている。
「さっきの人……あなたの仕事と関係あるのね」
「……ああ。俺が追っている組織の一味だ」
美緒はコップを握ったまま、俯いた。
現実が音を立てて崩れていく。普通の主婦としての生活は、もう遠くへ行ってしまった。
「悠真……わたし、本当に大丈夫なの?」
「絶対に守る」
彼は迷いなく言い切った。
「何があっても、命に代えても」
その強さに胸が熱くなる一方で、美緒の心は複雑だった。
――命に代えても、なんて言わないで。
あなたがいなければ、わたしはもう……。
声にならない叫びが、胸の奥で軋むように響いていた。