旦那様は公安刑事

第九章 夫の素顔

 倉庫から救出された夜、美緒は公安の用意した施設に一時的に保護された。
 白い壁、無機質な部屋、警備員の視線。
 守られていると分かっていても、胸の奥の震えは止まらない。

 ベッドの端に腰掛けると、指先が勝手に震えていた。
 その震えを止めたのは、隣に座った悠真の大きな手だった。
 固く、温かい手。倉庫で彼が盾のように立ちはだかったときと同じ力強さがそこにある。

「……大丈夫か」
 低く抑えた声が、美緒の耳に届く。
「大丈夫じゃないよ……怖かった……本当に、もう会えないかと思った」
 堰を切ったように涙がこぼれる。

 悠真は無言で抱き寄せ、背中をゆっくりと撫でた。
 その仕草は、刑事ではなく、ただの“夫”のものだった。

     

 少し落ち着いてから、美緒はずっと胸に溜めていた思いを口にした。
「ねえ……悠真。あなたが公安刑事だって知って、すごい人なんだって思った。
 でも同時に……わたし、本当にあなたのこと何も知らなかったんだなって」

 悠真は視線を落とし、短く息を吐いた。
「知られないようにしてきた。俺の素顔なんて、見せない方がいいと思っていたから」

「でも……」
「俺は冷静でなきゃいけない。感情を出せば判断を誤る。
 だからずっと、公安刑事の顔だけを見せてきた。……でも、美緒にまでそうしていた」

 初めて聞く言葉だった。
 強いと思っていた夫が、実は感情を押し殺していた。
 その事実が、美緒の胸を締めつけた。

「……怖いよ、悠真。任務で死んじゃうんじゃないかって思う。今日だって、あなたが撃たれたらどうしようって……」
「俺も怖い。お前を失うのが」

 短い告白は、不器用で真っ直ぐで、美緒の胸を深く揺さぶった。
 夫の素顔は、冷徹な公安刑事ではなく、ただ一人の妻を守りたいと願う男だったのだ。

     

 その夜、美緒は初めて悠真の胸の内に触れた気がした。
 腕の中で涙を流しながらも、不思議な安心感に包まれていく。

「……これから先、また危険があるかもしれない。それでも、傍にいてくれるか」
「当たり前でしょ。わたし、あなたの妻だもの」

 暗い部屋に灯った言葉は、互いの心を照らす光のように温かかった。

     

 けれどその温もりは長く続かなかった。
 翌朝、悠真の携帯に届いた一報が、ふたりを再び現実に引き戻す。

《組織の背後に、新たな動きあり》

 悠真の表情が硬くなり、再び公安刑事の顔に戻っていく。
 ――愛を知った今だからこそ、その冷徹さがいっそう恐ろしく思えた。
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