失恋の痛みは後輩くんに奪われる
ずっと見ていた
気づいたときには、目で追っていた。
最初は、業務を教えてくれる先輩だから、このひとの一挙手一投足から目を離さずにいようと思ったのがはじまりだった。
入社当初の願い通り企画開発部に配属され、指導係としてついてくれたのが宮内沙織だった。
「面倒だけど、根回しが大事。熱に媚を売るわけじゃないのよ?でも色々前もって動いておいた方がスムーズに進むから」
そう言って軽やかに笑うひとだった。
「先輩、すごい細かいですね」
「本来の企画の仕事と程遠くて嫌になっちゃった?でもね結局自分のつくりたい商品を通すためには、こういう地道な作業が大事なの。だっていざつくるってなったときに、絶対妥協したくないでしょう」
そのためには嫌なことだって頭下げるのだって全然苦じゃないと笑ってみせる沙織は、東堂にとってはとても大きな存在で、全然届かない完璧な先輩に見えた。
子どもの頃から、容姿端麗だともてはやされることが多かった。長身なのは家系だし――祖父がそもそも日本人離れした高身長だった――、両親どちらにも似ていると言われるから、たまたまそういう血筋だったのだろう。「外見で人生得している」と嫌味を言われたこともあったが、実際は損をするばかりで、得だと思ったことなどなかった。
どちらかといえば、同姓の友人だと思っていた人物に影で「あいつは顔だけの人間だ」と言われていたときのショックの方が大きい。
だから、東堂は自分の見目にはなんの感慨も持たないように生きてきた。役に立つのは、相手が他人を外見で判断するかどうか、を身をもってわかることができることくらいだ。
沙織は、今まで出会った人の中でも、群を抜いてフラットな人物だった。
いつも適度に機嫌が良く、誰に対しても同じように接していた。むっとしたり、カチンときたり、そういった誰にでもありがちな感情のさざなみを立てない人物だった。
東堂は、無口で無表情だと言われているけれど、それは自分の感情が逆立てられたときに表に出さないためだった。それだけ内心では頻繁にイライラしているのだ。
他人の些細な言葉尻にも「ん?」と引っかかってしまう。沙織はそんなそぶりを全く見せなかった。後輩がミスしたときも、上司から嫌味を言われたときも、他部署から理不尽な要求を突きつけられたときも。いつも感情を逆立てない。いったいどうやって自分の機嫌を取っているのだろう、と気になった。そしてできれば見習いたいとも。
そんな興味もあって、東堂はますます沙織を見つめることが多くなった。
そうして、気づいた。
沙織が、とある男を見つめるときだけ、ふっと表情を緩めることを。
第一営業部第二課長の国代拓巳。社内でも有名人物だ。その中世的な美しさは、まるでアイドルがゆったり歳を取ったようだった。いつも穏やかで、部下を叱責しているところを見たことがない。それでいて二課の営業成績が一課を凌ぐほど優れているのは、国代の功績だと讃えられていた。
ああなんだ。彼女もああいう男が好みなのか。
東堂は残念な気持ちを抱いた。そうしてすぐ、その違和感の正体に気づく。
沙織が誰を好きであろうと、自分には関係ないはずなのに、どうしても面白くない。最初はそれが、国代が完璧な男だから、彼女も他の女性たちと同じなのか、とがっかりしたのだと信じていた。
一方的に彼女に幻滅するなんて勝手だな、と自分を嘲笑ったところで、はたと疑問が浮かんだ。
面白くないのは、国代だからなのだろうか、と。
そもそも他の男であっても、沙織が誰かを見ていたら自分はどう思うのだろうか。そこまで考えて、東堂はああと納得した。
自分は、このひとに惹かれているのだと。
まさか気づいた瞬間に失恋するとは思ってもいなかった。
正直、これまで告白されることはあっても、自分から好きになったひとなんていなかった。それがまさか、初めてひとを好きになったと気づくのが、他の男を見つめているときだなんて。
しかし、胸にわずかに刺さるような異変は、それだけではなかった。
沙織をよく見ていた自分だから気づいたのだ、と東堂は自信を持っていた。
時々、沙織の出勤する時間がやけに早い日があることに気づいた。そんな朝、沙織の髪からはいつもと違う香りがした。普段の甘い香りではなく、少しだけみずみずしいような。
前日と同じ服を着ているなんてことはない。ただ、朝早い出勤の日は、沙織はいつもコーヒーのカップを手にしていた。ブルーの紙コップにダークブラウンで印字された店名。東堂は行ったことのない店だったが、同じカップをつい先日も見たような気がした。人気店なのだろうか。
「そのコーヒー、時々飲んでますけど、美味いんですか」
「うん。飲みやすいよ。酸味は少なめかな」
「ブラックですか?」
「そうだよ」
いつも休憩中はカフェオレばかり飲んでいるのに?
その店のコーヒーはブラックで飲むらしい。
本当に美味しいと思っているのだろうか。そう疑ったとき、先日営業部と企画部の合同会議に参加していた国代が、同じカップを持っていたことを思い出した。
あ、とこぼれそうになった声を慌てて飲み込む。自分の拳を強く握り込んだ。ぎりりと爪が食い込んで、手のひらが痛む。
沙織は、国代と付き合っているのだ。
その瞬間、いつか振り向いてもらえたらなんていう淡い期待は脆く崩れ去った。
片想いではなく、すでに付き合っているのだ。
そう思って二人を見ると、お互いがお互いをみる眼差しがやけに甘ったるいことに気づいた。社内では決してプライベートの会話を交わさないようにしているようだったし、二人とも決して態度に出したりしない。それでもずっと近くで沙織を見つめている自分だからこそ気づいた。ほんのわずかな違いだった。
完膚なきまでの敗北。そんな言葉が頭をよぎった。
でもそれと同時に、どこかすっきりもしていた。国代が、沙織を選んだということに、どこか胸がすく思いがしたからかもしれない。それまでいけすかなく感じていたあの微笑も、彼女の魅力にいち早く気づいているのだとしたら、それはそれでなかなかやる男だな、なんて思っていた。
国代が、社長の娘と結婚するという知らせが飛び込んでくるまでは。
思い返せば、珍しく沙織が体調不良で休んだ日があった。
国代と社長の娘の婚約が発表されたのは、それからわずか数日後だった。沙織と別れたあと、この短期間で結婚は決まらないだろう。
おそらく国代は沙織と社長の娘を天秤にかけ――沙織は国代に振られたのだろう。そして国代は社長の婿となることを選んだ。そう考えると合点がいった。そして同時に、沙織の胸中を思うと、まるで自分のことのように胸が痛んだ。
婚約の知らせが届いた日、沙織は普通に出勤していた。朝礼でその話が出たときも、動じることなく笑みを浮かべて報告を聞いて、他の社員に混じって拍手までしていた。
奥歯を噛み締める。
内心は、どれだけ辛いのだろう。国代に対して怒りと同時に哀れみさえ覚えた。このひとを選べない、愚かな男として。
「……これ、良かったら」
その日の昼休み、外で簡単に食事を済ませて、帰る途中に寄ったカフェに置いてあったフィナンシェを差し出す。
こんな些細なもので沙織の気が晴れるとは思っていないけど、気づけばコーヒーと一緒にテイクアウトしていた。
「ありがとう。どうしたの?」
「いや……、食べたいと思って買ったんですけど、やっぱりいらないなって」
「そうなの?日持ちするならデスクに入れとけばいいのに」
「いや、大丈夫です、忘れて食べずに終わりそうなので」
「……じゃあ遠慮なく」
そう言ってフィナンシェを受け取った沙織は、「後で飲み物買って一緒にいただくね」とふんわり笑みを浮かべた。
なんてことない、いつも、誰にでも向けている笑みのはずなのに、ずきんと胸に響いた。
彼女はいったいどんな思いでいるのだろう。本当は落ち込んでいるのではないか。ため息をついたり、泣いたりしたいのではないか。
そう考えると、ますます沙織のことが気になった。
彼女はいったい、いつ、誰に本音を明かしているのだろう。
国代相手にそうできているのだと思っていたけれど、それができなくなってしまったのだとしたら。
自分が、彼女を支えたい。そう思った。
最初は、業務を教えてくれる先輩だから、このひとの一挙手一投足から目を離さずにいようと思ったのがはじまりだった。
入社当初の願い通り企画開発部に配属され、指導係としてついてくれたのが宮内沙織だった。
「面倒だけど、根回しが大事。熱に媚を売るわけじゃないのよ?でも色々前もって動いておいた方がスムーズに進むから」
そう言って軽やかに笑うひとだった。
「先輩、すごい細かいですね」
「本来の企画の仕事と程遠くて嫌になっちゃった?でもね結局自分のつくりたい商品を通すためには、こういう地道な作業が大事なの。だっていざつくるってなったときに、絶対妥協したくないでしょう」
そのためには嫌なことだって頭下げるのだって全然苦じゃないと笑ってみせる沙織は、東堂にとってはとても大きな存在で、全然届かない完璧な先輩に見えた。
子どもの頃から、容姿端麗だともてはやされることが多かった。長身なのは家系だし――祖父がそもそも日本人離れした高身長だった――、両親どちらにも似ていると言われるから、たまたまそういう血筋だったのだろう。「外見で人生得している」と嫌味を言われたこともあったが、実際は損をするばかりで、得だと思ったことなどなかった。
どちらかといえば、同姓の友人だと思っていた人物に影で「あいつは顔だけの人間だ」と言われていたときのショックの方が大きい。
だから、東堂は自分の見目にはなんの感慨も持たないように生きてきた。役に立つのは、相手が他人を外見で判断するかどうか、を身をもってわかることができることくらいだ。
沙織は、今まで出会った人の中でも、群を抜いてフラットな人物だった。
いつも適度に機嫌が良く、誰に対しても同じように接していた。むっとしたり、カチンときたり、そういった誰にでもありがちな感情のさざなみを立てない人物だった。
東堂は、無口で無表情だと言われているけれど、それは自分の感情が逆立てられたときに表に出さないためだった。それだけ内心では頻繁にイライラしているのだ。
他人の些細な言葉尻にも「ん?」と引っかかってしまう。沙織はそんなそぶりを全く見せなかった。後輩がミスしたときも、上司から嫌味を言われたときも、他部署から理不尽な要求を突きつけられたときも。いつも感情を逆立てない。いったいどうやって自分の機嫌を取っているのだろう、と気になった。そしてできれば見習いたいとも。
そんな興味もあって、東堂はますます沙織を見つめることが多くなった。
そうして、気づいた。
沙織が、とある男を見つめるときだけ、ふっと表情を緩めることを。
第一営業部第二課長の国代拓巳。社内でも有名人物だ。その中世的な美しさは、まるでアイドルがゆったり歳を取ったようだった。いつも穏やかで、部下を叱責しているところを見たことがない。それでいて二課の営業成績が一課を凌ぐほど優れているのは、国代の功績だと讃えられていた。
ああなんだ。彼女もああいう男が好みなのか。
東堂は残念な気持ちを抱いた。そうしてすぐ、その違和感の正体に気づく。
沙織が誰を好きであろうと、自分には関係ないはずなのに、どうしても面白くない。最初はそれが、国代が完璧な男だから、彼女も他の女性たちと同じなのか、とがっかりしたのだと信じていた。
一方的に彼女に幻滅するなんて勝手だな、と自分を嘲笑ったところで、はたと疑問が浮かんだ。
面白くないのは、国代だからなのだろうか、と。
そもそも他の男であっても、沙織が誰かを見ていたら自分はどう思うのだろうか。そこまで考えて、東堂はああと納得した。
自分は、このひとに惹かれているのだと。
まさか気づいた瞬間に失恋するとは思ってもいなかった。
正直、これまで告白されることはあっても、自分から好きになったひとなんていなかった。それがまさか、初めてひとを好きになったと気づくのが、他の男を見つめているときだなんて。
しかし、胸にわずかに刺さるような異変は、それだけではなかった。
沙織をよく見ていた自分だから気づいたのだ、と東堂は自信を持っていた。
時々、沙織の出勤する時間がやけに早い日があることに気づいた。そんな朝、沙織の髪からはいつもと違う香りがした。普段の甘い香りではなく、少しだけみずみずしいような。
前日と同じ服を着ているなんてことはない。ただ、朝早い出勤の日は、沙織はいつもコーヒーのカップを手にしていた。ブルーの紙コップにダークブラウンで印字された店名。東堂は行ったことのない店だったが、同じカップをつい先日も見たような気がした。人気店なのだろうか。
「そのコーヒー、時々飲んでますけど、美味いんですか」
「うん。飲みやすいよ。酸味は少なめかな」
「ブラックですか?」
「そうだよ」
いつも休憩中はカフェオレばかり飲んでいるのに?
その店のコーヒーはブラックで飲むらしい。
本当に美味しいと思っているのだろうか。そう疑ったとき、先日営業部と企画部の合同会議に参加していた国代が、同じカップを持っていたことを思い出した。
あ、とこぼれそうになった声を慌てて飲み込む。自分の拳を強く握り込んだ。ぎりりと爪が食い込んで、手のひらが痛む。
沙織は、国代と付き合っているのだ。
その瞬間、いつか振り向いてもらえたらなんていう淡い期待は脆く崩れ去った。
片想いではなく、すでに付き合っているのだ。
そう思って二人を見ると、お互いがお互いをみる眼差しがやけに甘ったるいことに気づいた。社内では決してプライベートの会話を交わさないようにしているようだったし、二人とも決して態度に出したりしない。それでもずっと近くで沙織を見つめている自分だからこそ気づいた。ほんのわずかな違いだった。
完膚なきまでの敗北。そんな言葉が頭をよぎった。
でもそれと同時に、どこかすっきりもしていた。国代が、沙織を選んだということに、どこか胸がすく思いがしたからかもしれない。それまでいけすかなく感じていたあの微笑も、彼女の魅力にいち早く気づいているのだとしたら、それはそれでなかなかやる男だな、なんて思っていた。
国代が、社長の娘と結婚するという知らせが飛び込んでくるまでは。
思い返せば、珍しく沙織が体調不良で休んだ日があった。
国代と社長の娘の婚約が発表されたのは、それからわずか数日後だった。沙織と別れたあと、この短期間で結婚は決まらないだろう。
おそらく国代は沙織と社長の娘を天秤にかけ――沙織は国代に振られたのだろう。そして国代は社長の婿となることを選んだ。そう考えると合点がいった。そして同時に、沙織の胸中を思うと、まるで自分のことのように胸が痛んだ。
婚約の知らせが届いた日、沙織は普通に出勤していた。朝礼でその話が出たときも、動じることなく笑みを浮かべて報告を聞いて、他の社員に混じって拍手までしていた。
奥歯を噛み締める。
内心は、どれだけ辛いのだろう。国代に対して怒りと同時に哀れみさえ覚えた。このひとを選べない、愚かな男として。
「……これ、良かったら」
その日の昼休み、外で簡単に食事を済ませて、帰る途中に寄ったカフェに置いてあったフィナンシェを差し出す。
こんな些細なもので沙織の気が晴れるとは思っていないけど、気づけばコーヒーと一緒にテイクアウトしていた。
「ありがとう。どうしたの?」
「いや……、食べたいと思って買ったんですけど、やっぱりいらないなって」
「そうなの?日持ちするならデスクに入れとけばいいのに」
「いや、大丈夫です、忘れて食べずに終わりそうなので」
「……じゃあ遠慮なく」
そう言ってフィナンシェを受け取った沙織は、「後で飲み物買って一緒にいただくね」とふんわり笑みを浮かべた。
なんてことない、いつも、誰にでも向けている笑みのはずなのに、ずきんと胸に響いた。
彼女はいったいどんな思いでいるのだろう。本当は落ち込んでいるのではないか。ため息をついたり、泣いたりしたいのではないか。
そう考えると、ますます沙織のことが気になった。
彼女はいったい、いつ、誰に本音を明かしているのだろう。
国代相手にそうできているのだと思っていたけれど、それができなくなってしまったのだとしたら。
自分が、彼女を支えたい。そう思った。