黒き噂の辣腕社長は強がり契約妻に生涯愛を絶やさない
 工事中のエリアをすぎると、昔のままを残した一帯が近づいてくる。さっき目にした変化の目まぐるしい場所に比べて、まるでこの先は時間の流れから取り残されたように見える。

 道幅はそれほど広くないため、バスは緩やかに進んでいく。

 そのうち、【再開発反対】と書かれた看板や幕が複数見えてきた。古きよきものを、そのままの姿で残したい。そう訴える、地元住民やここで働く従業員らの抗議の声だ。

 ただどこか遠慮がちに掲げられているのは、昔からある施設をお目当てに訪れてくれる客への配慮だろう。日常から離れて静かに過ごしてもらうことを売りにしているのに、不穏な空気一色になっては台無しだ。

 糸貫庵を経営する私の家族は、再開発に反対してきた。昔からうちを贔屓にしてくれる顧客の期待を裏切りたくなかったし、長く続く旅館を自分たちの代で終わりにしたくないという気持ちも大きい。

 若くして亡くなった両親も、そろってあの旅館で働いていた。ふたりは、いずれ後を継ぐのだと奮闘していた。生きていれば、私たちときっと同じ気持ちになっていたと思う。

 実家は、旅館の裏にある。そのため私にとっても糸貫庵は身近な存在で、あって当たり前のものだった。
 今は家を出ているとはいえ、思い出がたくさん詰まった糸貫庵を心から大事に思っている。

 そんな私情もあるが、私たちが再開発に反対する理由はほかにもある。
 糸貫庵の周辺には、旅館があるからこそ経営が成り立っている土産物屋や飲食店やなどが多くある。糸貫庵の決定が及ぼす影響は大きく、簡単に賛成できない。
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