優しい先輩

偶然の出会い

「何悩んでんの?」

 突然頭を撫でてきた男性に皆本萌は口を開けて驚いた。

「え、うそうそ。誰!」

 思わず手を払う。男性に全く見覚えはない。新手の痴漢か。一方、その男性も目を見開いて固まっていた。

「あの」
「すみません! 間違えました!」

 九十度にお辞儀をして謝罪される。どうやら、彼の間違いであったらしい。

「妹と間違えました!」
「あ、いえ、大丈夫です。こちらこそ騒いですみません」
「申し訳ありません。では」

 何度もペコペコして男性が去っていく。少し離れたところで女性が手招きをしていた。彼女が妹なのだろう。顔は似ていないが、たしかに髪の長さは同じだった。

「服も違うし、よっぽど慌ててたのかな」

 微笑ましく見送り、残っていたジュースを飲み干してカフェを出る。明日は転職先の初出社の日。すでに心臓が弾んでいるが、きっと良い日になるだろう。







「皆本萌です。よろしくお願いいたします」

 翌日月曜日、配属された部署で挨拶を済ませる。人事総務課なので人数も五人と少なめだが、その分早く同僚の顔を覚えられる。ここにいるのは三人。あと一人は経理課に行っているらしい。

「戻りました」

 なんだか聞き覚えのある声に萌が振り向く。そこには昨日会った例の男性が立っていた。お互い目を丸くさせて大きな口を開ける。

「あ!」

 それを課長の岡本が不思議そうに尋ねる。

「森君、もしかして知り合いかい?」
「いえ、昨日偶然会話したと言いますか」

 森が気まずそうに苦笑いをして答えた。萌も頷いてフォローする。

「はい。カフェでたまたま挨拶しただけで。お名前も知りませんでした」
「そうかそうか。じゃあ、これも何かの縁だ。指導役は森君に任せようかな」
「え……っと、分かりました。皆本さん、森要です。よろしくお願いします」
「はい! お世話になります」

 萌は森に元気よく頭を下げた。



「まずは社内を案内するよ」
「はい」

 メモ帳を取り出し、森の後に続く。今日から働くことになった株式会社ハップはイベント運営を主に行っており、それに伴うWEBサイト構築部門もある。運営本部から始まり、営業部、デザイン部、システム開発部など、大勢の社員が働いている。事業拡大に伴い管理部の人員が足りず、こうして萌が採用されたわけだ。

「このフロアだけで二百人以上いるかな。廊下を挟んで隣が百人ほど。あとはこの本社以外に支店が二か所あるけど、会うことは少ないからまた今度ね」

「はい」
「あ、そこ段差気を付けて」

 見ると、一センチ程の段差があった。ひょいと跨いで次の部屋に行く。

「そこ、重い物があるからこっち歩こうか」

 今度は紙が入っている段ボールが積まれていた。森は萌に触れることなく、ジェスチャーで歩く方向を促した。随分気の利く男性だと感心する。

「とりあえず今日はこのくらいで」
「有難う御座いました」

 資料室や在庫管理の部屋などの場所を確認し、管理部に戻ってくる。これだけで三十分近くかかった。初日だから仕方ないものの、森の業務を邪魔している気がして不安になる。

「もともと指導係は森さんじゃなかったんですよね。すみません」
「いやいや、俺か坂宮さんのどちらかって言われていたから。あ、坂宮さん分かる? 俺より先輩の眼鏡かけた女性の」
「さっき自己紹介してくれました」

 どうやら迷惑には思われていないようでほっと胸を撫で下ろす。

 萌は改めて森をじっと見つめた。昨日の出来事があったからか、森は萌にとても優しくしてくれる。もとからこうなのか、それともこれが成人男性の通常なのか。女性に厳しい兄とともに育った身としてはなかなかに信じられない。

 前職は女性ばかりだったので、男性と会話する機会は極めて少なかった。幹部の男性はいつも大柄だった。大学時代に仲の良い男性のサークル仲間はいたが、このような落ち着いた感じではなかった。

──大人の男性ってことなのかなぁ。

 森は二十五歳なので一つ上だ。一歳の差でここまで余裕が出るとは。萌もいっぱしの社会人として、森を見習って人間として成長していきたい。

 その後は、課の一日の流れと、会社で採用しているソフトの立ち上げ方や入力方法を習った。ただそれだけなのに、定時になる頃にはどっと疲れが溜まってしまった。

「お疲れ様。初日だから大変だったでしょ」
「はい。でも全然役に立ってないので、明日からもっと頑張ります」
「やる気があっていいね。そうだ、これよかったらどうぞ」

 隣のデスクから声をかけてきた森が萌にお茶のペットボトルを渡してくる。

「わ、すみません。頂きます」
「いいえ。明日からもよろしくね」

 控えめな笑顔が素敵だ。萌はそれを見て、森に少々恐怖した。

 森は親切だ。声を荒げることもなく、笑顔も穏やかで少しも圧を感じさせない。それが逆にわざとらしい気もする。

──もしかして、何か狙いが? 実は裏ではすごいとか、私に怪しい高い水を売ろうとしているとか。

 優しすぎて怖い。森が立ち上がったため、萌は思わず体を少しのけぞらせた。

「じゃあ、お先に」
「あ、はい。お疲れ様です」

 森は萌を誘うことなく一人で帰っていった。てっきり今日の感じで一緒に帰ろうと言ってくるかと思っていた。

「皆本ちゃんももう帰って大丈夫だからね。よかったら駅まで一緒に行く?」
「はい、お願いします」

 代わりに坂宮が声をかけてくれる。萌はデスクを軽く片付けて立ち上がった。

「どう? まだ初日だけど、少しは雰囲気に慣れた?」

 帰り道、電車に乗りながら坂宮が聞く。萌が考えながら答えた。

「森さんが社内を丁寧に案内してくださったので、なんとなく慣れました」
「よかった。人間関係は穏やかなところだから良い会社だと思うよ」
「そうなんですね」

 転職した身として一番気になるところはそこだ。給与や勤務体系などは事前に把握できる。しかし、社内にどのような人間が存在しているのかは実際入ってみないことには分からない。前職がそうだったように。

「土日完全休みっていうところも良いですね」
「あ、前職は違ったんだ」
「月に一、二回出社日がありました」

 完全週休二日制と言われていた。だから安心して入社した。しかし、蓋を開けてみれば、週休二日というのが完全だから、祝日で週休が三日になる場合は土曜出社をして週休二日に合わせると言われた。言い方の問題で済むほどお気楽ではなかった。きっと言い返したところで勘違いしたお前が悪いとなっただろうし、昔からの決まりを変えてくれるような会社ではなかった。

 それなので入社二年で思い切って転職してみたのだが、しっかりそのあたりを確認したのがよかったのか、だいぶホワイト企業に転職できたと思う。もしかしたら、ここで働いている人たちは全ての土日が休めるのは当然だと思っているかもしれないが、世の中にはそううまくいかないところもかなりあるのである。

 坂宮と別れ、一人帰路に着く。パンプスを脱いで手洗いうがいをし、部屋着に着替えた瞬間ベッドにダイブした。脱いだ服は床に散らばっている。

「あ~~~~~疲れたッ」

 しかし、心の充実度は高い。人数の少ない課なので心配していたが、杞憂に終わってほっとした。ただ、まだ安心はできない。森がとにかく優しすぎる。

「まあ何かあれば、坂宮さんに相談すればいいか」

 優しくしてくれている人を疑うのは失礼だ。とりあえず、少し距離を取って接していればいい。向こうだって会社の人間相手なのだから、あれ以上距離を縮めてくることはないだろう。
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