優しい先輩

優しすぎる

「おはよう。今日もよろしくね」
「お早う御座います。お世話になります」

 がばりとお辞儀をしてやる気を見せる。出社二日目、まだまだ右も左も分からないひよっこだ。

「ルーティン作業を教えるから、少しだけやってみようか」
「はい」

 メモを片手に専用ソフトを立ち上げる。エクセルなら人並みに使えるが、前職が営業だったため総務関連業務は全くの未経験。森の説明を一言も漏らさないようメモしていったら、結果的に書き終わるのを森が待つことになり、はっと顔を上げて謝った。

「すみません。先、お願いします」
「いいよ。ゆっくりメモして。それで挑戦して、分からなかったらまた聞いてくれればいいから」

 こちらが慌てても遅くても失敗しても、森は否定しない。同じ質問を二回しても嫌な顔をしなかった。これが何か月も経ってのことであればさすがに怒られるかもしれないが、せっかくなので新人のうちにたくさん質問しておこうと思う。

「じゃあ、昨日営業から上がってきた書類の入力作業お願いね」
「はい」

 ついに自分だけでやる仕事を回された。隣の席には森がいるので心強い。一枚試しにやってみたら、決まった個所を入力するだけなので簡単だった。はりきって入力を進めていく。

 パソコンの時計を見たら十五分経過していた。ふと、この作業の時間として遅くないか気になった。そっと森の方を向く。森も萌を見ていた。

「何か分からないとろこあった?」
「いえ、作業遅くないかなとちょっと不安になって」
「大丈夫、初めてなのに早い方だよ」
「そうなんですね。あと半分頑張ります」

 必死にやったおかげで、予定より少しだけ早く終了した。森に提出し、確認してもらう。小さなミスが一つあっただけで、初めてなのに素晴らしいと手放しに褒められた。途中、森が萌の頭に手をやろうとしてすぐに引っ込められた。

──もしかして、妹さんにやっていて癖づいているのかも。

 あのまま頭を撫でられるのも悪くないと思ってしまった自分に驚いた。すでに流されてしまっている。相手はまだ出会ったばかりの会社の先輩なのに。恋愛対象として見てはくれないだろう。そもそも、この優しさだって本当かどうか分からないのに。

 モヤモヤした気持ちを抱えながらも、午前中の業務を進めていく。入力作業が問題なかったので、似たような仕事を与えられた。これならたいした失敗をせず、使えない人間が入社してきたとは思われない。

 森が立ち上がる。目線だけで追う。廊下に出てしまった。他の部署に行くのだろうか。なんとなく気になって、萌もそっと廊下に出た。

──トイレ行くだけ、トイレ行くだけ。

 ストーカーしているようで気が引ける。さっさとトイレに行って戻ろう。きっと彼も同じだろう。ところがトイレの前まで来たところで、給湯室から森の声が聞こえてきた。

「だから、そいつはちょっと家に置いてるだけで、すぐいなくなるから」

──えッ。

 聞くつもりはなかったが、いつもよりやや乱暴な言い回しと物騒な内容な気がして足が止まってしまった。

「とにかく放っておけよ。分かったな」

 誰かと電話をしているらしい。通話が終わったため、慌ててトイレの中に入る。

「なんだろう……誰かを家に泊めてるってことだよね。しかも、彼女さんとか穏やかな関係じゃないっぽい」

 萌はがっくり肩を落とした。おそらく犯罪のような危ないことではないと思うが、先ほどまでの森像が崩れてしまった。やはり、優しいのは表面上のことらしい。社会人なのだから会社で愛想よくするのは当然かもしれないが、今までとの差が大きくてなかなか受け入れられなかった。

 席に戻ると、すでに森がいた。目を合わせないようにして座り、作業を再開する。夢中になって仕事をしていれば、あっという間に昼休みになった。

「ね、皆本ちゃんってお弁当じゃないよね。よかったらみんなでランチ行かない?」
「あ、行きます行きます」

 坂宮が声をかけてくれた。一人では退屈だったところなので勢いよく誘いに乗る。

 愛妻弁当だという課長の寂しい視線に手を振りつつ、他のメンバー全員でランチに向かう。当然、森も一緒だ。先ほどのことが気になって、少しだけ離れたところを歩く。

「皆本ちゃんはどんなジャンルが好き? 洋食とか中華とか」

「嫌いなものはあまり無いので、なんでも歓迎です。この辺り詳しくないので、坂宮さんのおすすめのお店あったらそこでお願いします」

「そっかぁ。なら、いろんなハンバーグとカレーが美味しいところにしよっか」

「どっちも大好きです!」

 二十四歳の萌が課の中で一番若いため、まるで新入社員のように扱ってくれる。森が異常に優しいのも新人だからだろうか。そうなると、慣れてきたら厳しくなってくるのかもしれない。電話の感じでこられたら少々怖い気もするが、もっと怖い人たちと働いていたのでどんとこいだ。

 道路で車道側を歩いてくれるのも、ランチの場所に着いてドアを開けて待っていてくれるのも、きっと社内での体裁のため。勘違いしないようにしなければ。

「美味しいです!」
「ね! また来ようね」

 萌は両頬にハンバーグを詰め込みながら、扉が開きかけていた森への想いをそっと閉じた。
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