甘やかな契約婚 〜大富豪の旦那様はみりん屋の娘を溺愛する〜



「学生時代、母が体調を崩して寝込んでいた頃に料理を作ったんだ。母が好きだった煮物を……図書館で本借りてレシピ見ながら材料買ってさ。あの味醂を使ったのはたまたまだけど、煮物を作ったんだ。全然美味くないのに母が少し笑って、“美味しい”と言ってくれた。……あの笑顔を、今でも覚えている」


 その言葉に、胸が熱くなった。
 【みやび】の味醂が、彼の記憶にそんな形で刻まれていたなんて……私の家の味醂が、彼の人生にお母さまとの大切な思い出として根付いていたなんて。

 彼の声は、静かだが深い感情を湛えていた。


「だから、あの蔵が傾いていると知ったときは……何としても守りたいと思った。俺のわがままだが、あの味は、俺の人生の支えなんだ」


 電話を切った後、彼は深く息を吐き、机に額を預けた。その背中が、驚くほど寂しそうに見えた。
 いつも完璧で、隙のない大富豪の姿とはかけ離れた、ただ一人の人間の姿だった。

 私はその場から動けなかった。

 罪悪感と、胸の奥から溢れてくる熱い想いが混ざり合い、心が張り裂けそうになる。


 ──私は、自分を“金のための妻”だと卑下してきた。
 彼が【みやび】を救ったのは、ただの財力や契約のためだと決めつけていた。

 だが、彼の心には、そんな想いがあったなんて想像もしていなかった。【みやび】は、彼にとって単なる調味料ではなく、母との絆、過去の温かな記憶そのものだったのだ。

 その事実に気づいた瞬間、張りつめていた心がふっと揺らいだ。
 彼が私を妻に選んだ理由は、もっと違うものがあるかもしれない。まだ分からない。

 だが、少なくとも、彼の行動の裏には、冷たい計算だけではない何かがある。それを知っただけで、私の心に小さな光が灯った。




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