甘やかな契約婚 〜大富豪の旦那様はみりん屋の娘を溺愛する〜
「紫月、いい匂いだな」
キッチンの入り口から響く彼の声に、私はハッとして振り返る。そこには、スーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めた彼の姿があった。いつもは凛とした佇まいの彼が、こんなにも穏やかで、どこか無防備な姿を見せる瞬間は、とても嬉しい。
「煮物、作ってみました。……お母さんの味、思い出してもらえたらいいなって」
声がわずかに震えた。緊張と期待が混じり合い、差し出した皿を持つ手がほんの少し震える。彼は静かに微笑み、テーブルに着いた。
煮物を口にした瞬間、彼の黒曜石のような瞳が揺れ、まるで遠い記憶の海に沈むように柔らかくなった。
その表情を見た瞬間、私の胸は締め付けられるような切なさと、ほのかな喜びでいっぱいになった。彼の心に、確かにあの味が届いている。それがわかっただけで、私の努力は報われた気がした。
「紫月、この味は……母の味、そのものだ」
彼の言葉は、静かだが深く私の心に響いた。その一言に、祖母の味醂が彼の過去と私の今を確かに結びつけていることを感じた。
胸の奥が熱くなり、涙が滲みそうになるのを必死で堪える。あの夏の日の出会いを、私は覚えていなかった。それでも、今こうして彼とテーブルを囲んでいる。この瞬間が、私にとって新しい記憶であり、未来への希望だった。