境界線の撫で方【弁護士×離婚届】
一 名前が乾くまで
離婚届の控えは、思っていたより薄い紙だった。
係の人に「旧姓に戻されますか」と聞かれて、うなずく。ボールペンの黒い跡が、前の名前を静かに横切っていく。インクが乾くのを待つあいだ、窓口のパーテーション越しに、夏の空気がわずかにゆれた。
庁舎を出ると、御園生(みそのう)律が植え込みの陰で手を振った。ノーネクタイの白いシャツ。いつものように、少しだけ距離を置いて立っている。
「お疲れさま。……いや、こういう時の言い方がいつも分からない」
「おめでとうじゃないしね」
「うん。でも、ごめんでもない」
彼は紙袋をさし出した。冷たいペットボトルのお茶と、小さなチョコレート。「糖分は味方だよ」と言って、私の前髪を見て、ためらい、そして——
掌がそっと、私の頭の上に降りた。
声に出さず、手の温度だけで、よく頑張ったねと言うみたいに。一度だけ、くしゃ、と撫でる。
涙がにじんだ。泣かないと決めていたのに、頬の内側がじんと熱い。私は笑って、でも笑いきれず、視線を落とす。
「ごめん。子ども扱いみたいだったか」
「ちょっと。……でも、今は、それでいい」
彼は小さくうなずいた。
御園生は私の代理人ではない。元夫の古い友人で、私の仕事の取引先でもあるから、手続きは利益相反になる。最初の相談の夜、彼は受任はできないとはっきり言い、代わりに信頼できる弁護士を紹介してくれた。生活の段取りだけは、同僚として、友人として手伝う——その線引きが、ずっと彼の真ん中にある。
「役所での用事は終わり?」
「ひと区切り。あとは銀行と年金と……名札」
「名札?」
「職場の。旧姓に戻すから」
「なるほど。じゃあ、昼は食べた?」
「まだ」
「ここから歩いて五分の店、静かなんだ。コーヒーがうまい。……送るだけのつもりだったけど、もし良ければ」
私は少し迷って、それからうなずいた。
庁舎の前の横断歩道を渡ると、真上でセミが鳴いた。蝉時雨の中で、名前が新しく乾いていく。胸のポケットの控えをなぞりながら、歩幅を一つだけ広げる。
―――
その店は、昼にしては照明が落ち着いていて、テーブルがゆとりを持って離れていた。向かい合うのではなく、横並びに座れるL字の席に通される。正面より、少し斜めのほうが、今日の私にはちょうどよかった。
「これ、チェックリスト。全部が今日じゃなくていいけど、優先順位だけ書いた」
封筒からA4の紙が出てくる。戸籍、免許、銀行、SNS、名刺——斜めの字で小さな注意書きが添えてあった。事情を話した夜、彼が作ってくれた生活の地図の最新版だ。
「仕事のメールは、サインの名前を先に直すのが効く。相手が自然と合わせてくれるからね」
「そういうの、どうして知ってるの」
「ここ数年、同じ道を歩く人たちを何人か見送ってきたから。……それに、君の仕事は外に出るから」
私はうなずいた。PRの案件で、御園生の事務所と私の会社は時々一緒になる。彼は法律の人というより、境界線に強い人だった。契約や権利の線だけじゃなく、人の間合いの引き方が、いつも過不足がない。
「ところで」彼は少し笑って、カップの縁を指で叩く。「さっきは、つい手が出た。あれは——」
「反則?」
「グレー。だけど、今日だけ。明日からは、もうしない」
「どうして」
「線引き。撫でるのは、守る側の手癖だ。君には、守られるだけの人でいてほしくない」
私はカップを持ち上げた。湯気の向こうで、御園生の横顔がぼやける。
守られるのは嫌いじゃない。むしろ、楽だった。けれど、離婚という言葉の前で、私は自分の足の重さをやっと確かめている。まっすぐ立つには、手に頼りすぎないほうがいい。
「うん。——ありがとう」
「午後は、会社に寄る?」
「うん。広報の名札、作り直す。それから、今夜の資料」
「じゃあ俺は、ここで解散。帰り道、困ったら電話して」
「仕事の?」
「もちろん」
彼は微笑む。線のこちら側にいる笑い方。
会計を済ませ、店を出ると、蝉の声がいっそう濃くなった。私はポケットの控えをもう一度確かめ、御園生に手を振る。彼はわずかに肩をすくめ、庁舎の方向へ歩いていった。白いシャツが、真昼の光で薄く透けた。
―――
家に戻ると、玄関の灯りが少しやさしい色で点いた。靴を揃える。いつもより中央に置いてみる。ここが、今日からの私の真ん中だと思うために。
キッチンの隅に、元夫のマグカップが一つ残っている。持ち手に小さな欠け。捨てるのは簡単だけど、今は置いておくを選ぶ。
電気ケトルの湯が鳴る。湯気に顔を近づけると、頬についた温度が「おかえり」と言った。
パソコンを開いて、メールの署名を直す。旧姓を打ち込むと、画面の文字は思ったよりあっさりそこに収まった。SNSのプロフィールも同じように。通知の海に、元夫からの短いメッセージが紛れている。会えないか——そう読める一文。私は既読をつけず、画面を閉じた。
仕事のチャットには、新しい案件のラフ案が上がっている。御園生の事務所が関わる案件だ。私は了解と打ち、PDFを開く。
境界線を味方につけるブランド設計——タイトルの脇に、見慣れた事務所名。今の私には、出来すぎの題だ。
リビングの真ん中に折り畳みの机を出す。紙とペン、ノートパソコン。いつの間にか彼が転がり込んできた頃に買った、大きすぎるマットレスも、この部屋の片隅で静かに膨らんでいる。手で触れると、反発が掌を押し返した。
撫でる手ではなく、押し返す掌。私はその感触を胸の奥に置く。
ピンポン、とメッセージが鳴る。御園生からだ。
《名札の発注フォーム、リンク貼る。サイズは前と同じで良い?》
《ありがとう。同じで。フォントだけ変えたい》
《OK。ゴシックから、明るさのある明朝へ——って、これは職権外の感想》
《境界線に強い人の、越境コメントね》
《たまには》
やり取りを終えると、ふっと肩の力が抜けた。
机の隅に置いた封筒を開く。チェックリストの一番上は名刺。会社に頼めば数日で届く。でも今夜はまず、自分で作る。仮名刺でいい。プリンターの音が部屋に満ちる。
窓の外で、薄い雲が流れていく。流れるものは流れていく。それでも、紙の上に残る字は、今日の私の選択の重さを引き受けてくれる。
印刷した名刺の端を、指でなぞる。
頭に触れたあの手の体温を思い出す。慰めだったのか、祝福だったのか。どちらでもよかった。大切なのは、その手を借りっぱなしにしないことだ。
私はスマホを開き、元夫からのメッセージの通知だけを静かにオフにした。
そして、新しい署名で、最初の仕事メールを一通だけ送る。宛先は御園生の事務所。件名は「本日付けの名義変更と、資料確認のお願い」。
送信ボタンを押す指が震えない。
私の名前は、もう乾いた。
―――
夜、窓の外で突風が走った。ベランダの鉢が倒れないように受け止めて、部屋に戻る。膝にかけたタオルの端を握りながら、今日一日をもう一度たどる。
撫でられた頭の皮膚が、ほんの少しだけ覚えている。甘えることと、預けることと、逃げることは違う。私はきっと、少し前まで、それを全部一緒にしていた。
テーブルに名刺の束を積む。薄い紙の層が、静かな塔みたいに立つ。
——明日は、職場の名札だ。会社に提出する書類に旧姓を記し、受付の札を差し替える。廊下ですれ違う人たちが、私の名前を読み直す。きっと少しだけ、私は恥ずかしくて、でも嬉しい。
枕元のスマホが震えた。御園生から、短いLINE。
《今日はよく眠れますように》
私は返事を書きかけて、やめる。
代わりに、ベッドサイドの手帳に一行だけ書いた。
——撫でる手の先で、私になる。
ペンを置くと、遠くで雷が鳴った。夏が、ゆっくりとページをめくる音がした。
係の人に「旧姓に戻されますか」と聞かれて、うなずく。ボールペンの黒い跡が、前の名前を静かに横切っていく。インクが乾くのを待つあいだ、窓口のパーテーション越しに、夏の空気がわずかにゆれた。
庁舎を出ると、御園生(みそのう)律が植え込みの陰で手を振った。ノーネクタイの白いシャツ。いつものように、少しだけ距離を置いて立っている。
「お疲れさま。……いや、こういう時の言い方がいつも分からない」
「おめでとうじゃないしね」
「うん。でも、ごめんでもない」
彼は紙袋をさし出した。冷たいペットボトルのお茶と、小さなチョコレート。「糖分は味方だよ」と言って、私の前髪を見て、ためらい、そして——
掌がそっと、私の頭の上に降りた。
声に出さず、手の温度だけで、よく頑張ったねと言うみたいに。一度だけ、くしゃ、と撫でる。
涙がにじんだ。泣かないと決めていたのに、頬の内側がじんと熱い。私は笑って、でも笑いきれず、視線を落とす。
「ごめん。子ども扱いみたいだったか」
「ちょっと。……でも、今は、それでいい」
彼は小さくうなずいた。
御園生は私の代理人ではない。元夫の古い友人で、私の仕事の取引先でもあるから、手続きは利益相反になる。最初の相談の夜、彼は受任はできないとはっきり言い、代わりに信頼できる弁護士を紹介してくれた。生活の段取りだけは、同僚として、友人として手伝う——その線引きが、ずっと彼の真ん中にある。
「役所での用事は終わり?」
「ひと区切り。あとは銀行と年金と……名札」
「名札?」
「職場の。旧姓に戻すから」
「なるほど。じゃあ、昼は食べた?」
「まだ」
「ここから歩いて五分の店、静かなんだ。コーヒーがうまい。……送るだけのつもりだったけど、もし良ければ」
私は少し迷って、それからうなずいた。
庁舎の前の横断歩道を渡ると、真上でセミが鳴いた。蝉時雨の中で、名前が新しく乾いていく。胸のポケットの控えをなぞりながら、歩幅を一つだけ広げる。
―――
その店は、昼にしては照明が落ち着いていて、テーブルがゆとりを持って離れていた。向かい合うのではなく、横並びに座れるL字の席に通される。正面より、少し斜めのほうが、今日の私にはちょうどよかった。
「これ、チェックリスト。全部が今日じゃなくていいけど、優先順位だけ書いた」
封筒からA4の紙が出てくる。戸籍、免許、銀行、SNS、名刺——斜めの字で小さな注意書きが添えてあった。事情を話した夜、彼が作ってくれた生活の地図の最新版だ。
「仕事のメールは、サインの名前を先に直すのが効く。相手が自然と合わせてくれるからね」
「そういうの、どうして知ってるの」
「ここ数年、同じ道を歩く人たちを何人か見送ってきたから。……それに、君の仕事は外に出るから」
私はうなずいた。PRの案件で、御園生の事務所と私の会社は時々一緒になる。彼は法律の人というより、境界線に強い人だった。契約や権利の線だけじゃなく、人の間合いの引き方が、いつも過不足がない。
「ところで」彼は少し笑って、カップの縁を指で叩く。「さっきは、つい手が出た。あれは——」
「反則?」
「グレー。だけど、今日だけ。明日からは、もうしない」
「どうして」
「線引き。撫でるのは、守る側の手癖だ。君には、守られるだけの人でいてほしくない」
私はカップを持ち上げた。湯気の向こうで、御園生の横顔がぼやける。
守られるのは嫌いじゃない。むしろ、楽だった。けれど、離婚という言葉の前で、私は自分の足の重さをやっと確かめている。まっすぐ立つには、手に頼りすぎないほうがいい。
「うん。——ありがとう」
「午後は、会社に寄る?」
「うん。広報の名札、作り直す。それから、今夜の資料」
「じゃあ俺は、ここで解散。帰り道、困ったら電話して」
「仕事の?」
「もちろん」
彼は微笑む。線のこちら側にいる笑い方。
会計を済ませ、店を出ると、蝉の声がいっそう濃くなった。私はポケットの控えをもう一度確かめ、御園生に手を振る。彼はわずかに肩をすくめ、庁舎の方向へ歩いていった。白いシャツが、真昼の光で薄く透けた。
―――
家に戻ると、玄関の灯りが少しやさしい色で点いた。靴を揃える。いつもより中央に置いてみる。ここが、今日からの私の真ん中だと思うために。
キッチンの隅に、元夫のマグカップが一つ残っている。持ち手に小さな欠け。捨てるのは簡単だけど、今は置いておくを選ぶ。
電気ケトルの湯が鳴る。湯気に顔を近づけると、頬についた温度が「おかえり」と言った。
パソコンを開いて、メールの署名を直す。旧姓を打ち込むと、画面の文字は思ったよりあっさりそこに収まった。SNSのプロフィールも同じように。通知の海に、元夫からの短いメッセージが紛れている。会えないか——そう読める一文。私は既読をつけず、画面を閉じた。
仕事のチャットには、新しい案件のラフ案が上がっている。御園生の事務所が関わる案件だ。私は了解と打ち、PDFを開く。
境界線を味方につけるブランド設計——タイトルの脇に、見慣れた事務所名。今の私には、出来すぎの題だ。
リビングの真ん中に折り畳みの机を出す。紙とペン、ノートパソコン。いつの間にか彼が転がり込んできた頃に買った、大きすぎるマットレスも、この部屋の片隅で静かに膨らんでいる。手で触れると、反発が掌を押し返した。
撫でる手ではなく、押し返す掌。私はその感触を胸の奥に置く。
ピンポン、とメッセージが鳴る。御園生からだ。
《名札の発注フォーム、リンク貼る。サイズは前と同じで良い?》
《ありがとう。同じで。フォントだけ変えたい》
《OK。ゴシックから、明るさのある明朝へ——って、これは職権外の感想》
《境界線に強い人の、越境コメントね》
《たまには》
やり取りを終えると、ふっと肩の力が抜けた。
机の隅に置いた封筒を開く。チェックリストの一番上は名刺。会社に頼めば数日で届く。でも今夜はまず、自分で作る。仮名刺でいい。プリンターの音が部屋に満ちる。
窓の外で、薄い雲が流れていく。流れるものは流れていく。それでも、紙の上に残る字は、今日の私の選択の重さを引き受けてくれる。
印刷した名刺の端を、指でなぞる。
頭に触れたあの手の体温を思い出す。慰めだったのか、祝福だったのか。どちらでもよかった。大切なのは、その手を借りっぱなしにしないことだ。
私はスマホを開き、元夫からのメッセージの通知だけを静かにオフにした。
そして、新しい署名で、最初の仕事メールを一通だけ送る。宛先は御園生の事務所。件名は「本日付けの名義変更と、資料確認のお願い」。
送信ボタンを押す指が震えない。
私の名前は、もう乾いた。
―――
夜、窓の外で突風が走った。ベランダの鉢が倒れないように受け止めて、部屋に戻る。膝にかけたタオルの端を握りながら、今日一日をもう一度たどる。
撫でられた頭の皮膚が、ほんの少しだけ覚えている。甘えることと、預けることと、逃げることは違う。私はきっと、少し前まで、それを全部一緒にしていた。
テーブルに名刺の束を積む。薄い紙の層が、静かな塔みたいに立つ。
——明日は、職場の名札だ。会社に提出する書類に旧姓を記し、受付の札を差し替える。廊下ですれ違う人たちが、私の名前を読み直す。きっと少しだけ、私は恥ずかしくて、でも嬉しい。
枕元のスマホが震えた。御園生から、短いLINE。
《今日はよく眠れますように》
私は返事を書きかけて、やめる。
代わりに、ベッドサイドの手帳に一行だけ書いた。
——撫でる手の先で、私になる。
ペンを置くと、遠くで雷が鳴った。夏が、ゆっくりとページをめくる音がした。
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