境界線の撫で方【弁護士×離婚届】

二 名札を差し替える日

朝、会社の受付でカードキーが一度だけ赤く点いた。
旧姓への切り替えがシステムにまだ行き渡っていなかったらしい。警備員さんがにこやかに電話をかけ、総務の三宅さんが小走りで来てくれる。

「お待たせ。今日からこちらでね」
透明のプレートに挟まれた新しい名札。明朝体がやわらかく光っている。
私は古い名札を外し、差し替える。プレートの奥で、自分の名前が小さく音を立てて居場所を得た。

「お帰りなさい、って言ったらいいのかな」
「ただいまでいいと思います」
「うん、ただいま」

小さな儀式を終えてエレベーターに乗る。四階で降りると、オフィスの空調が低く唸り、プリンターの音が一定のリズムで続いていた。
自席にカバンを置く。メールの署名は昨夜直した。モニターの右下に、旧姓のアカウント名がすっと収まり直している。

「名字、戻したんだね」隣の席の後輩・坂梨が、画面の端をのぞき込む。
「はい。本日から」
「発音、こっちのほうが好きです。呼ぶときの口が笑いやすい」
「それは新しい褒め方だね」

課長の折原が出社し、朝礼が始まる。今週の案件共有の最後に、折原がふと思い出したように私の方を見る。
「そうだ、名札の件。もし社外の表記や名刺で不備があったら、遠慮なく総務に言って。あと——」
彼は一息置いて、手元の資料を裏返した。
「午後、御園生法律事務所のチームと合流。境界線を味方につけるブランド設計のキックオフ。プレゼン一発目はうちが先に立つ。担当は君だ」

「承知しました」

私の声は思っていたより落ち着いていた。
御園生の名前が会議体に混じるのは珍しくない。PRと法務の境目で、クライアントに線の引き方をガイドする案件は増えている。けれど今日は、私の側の線がいつもより濃く、明確だ。

―――

昼前、総務に寄って名刺の発注フォームを提出する。備考欄に小さく「書体は明るさのある明朝で」と書くと、昨夜のやりとりがふいに蘇って、口元がゆるんだ。

自席に戻ると、チャットが一つ増えている。御園生の事務所からの共有フォルダ。法律観点の確認事項と題したメモは簡潔で、しかし配慮が行き届いていた。
——同意の可視化、匿名化表現の限界、救済導線の明示。
PRの言葉の手触りと、法の線が、同じテーブルに並んでいる。

スマホが震えた。
元夫からの名前が、通知に浮かぶ。一度話せないか——短い文。句読点がないのは、昔からだ。

私は深く息を吸って、パソコンのキーボードに手を置いた。返信はスマホではなく、メールで出す。私の選んだ距離で、選んだ言葉で。

> 件名:お返事
本文:
連絡ありがとう。直接会うのは、今日はやめます。
伝えたいことがあるなら、手紙にしてください。
弁護士さん経由でも大丈夫です。
私は今、新しい名前で仕事を始めています。こちらの生活を、まず整えます。



送信ボタンを押すと、胸のどこかが静かに沈む。そして、その沈みは不思議と痛くなかった。
机の上の仮名刺の束を軽く揃えて、午後の資料をもう一度読み返す。プレゼンの冒頭に入れる一文を、メモに書いた。

——越えない自由、選べる距離。

―――

午後、外部の会議室。
ガラス越しに街の空が広がり、白いブラインドが淡く光を割っている。御園生はすでに来ていて、黒いノートを前に置いていた。いつもの少し離れた位置取り。会釈の角度も、ちょうどいい。

「本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」

そのやり取りだけで、私は肩の力がほどけるのを感じた。
席に着くと、クライアント側の広報部長が話を切り出す。

「個人情報やプライバシーについて、社としては守る姿勢を強く押し出したい。けれど、消費者は使い勝手の悪さを嫌います。守りすぎると不便、のジレンマをどう言葉にするか、悩んでいて」

私は頷き、用意してきたスライドを映した。
一枚目。白地に文字だけ。

> 越えない自由、選べる距離。



部屋が静かになる。
私はゆっくり続けた。
「守るを前に出すと、使いづらさが先に連想されます。そこで、距離という言葉を置いてみました。距離は、近づくためにも、離れるためにも、必要な概念です。
選べる距離を保証することは、自由を守ることと同じです」

二枚目。サービス導線の図解。
「例えば登録時に最小限で始めるを選んだ人には、後から段階的に近づく選択肢を提示する。広告では近づき方をあなたが決めるを中心に据える。
全部くださいと何も出しませんの二択ではなく、ここまでは渡すけど、ここから先は渡さないという折衷の設計を見せる。これを言葉とUIで揃えたい」

そこで一度、私は言葉を止めた。
御園生の方を見ると、彼はペン先を軽く上げる。合図。
「法務の立場から補足します」と、御園生。声は静かだ。
「選べる距離を実装するには、同意の更新を容易にすること、撤回の窓口を分かりやすくすることが重要です。また、匿名化という言葉は広告では軽やかでも、法的な意味では厳密です。広告表現では個人が特定できないかたちに加工しますといった具体のほうが、誤解を生みません」

広報部長がうなずき、メモをとる音が重なる。
プレゼンの後半へ。成功事例と、失敗例。境界線を引きすぎて離脱を生んだケースと、線を曖昧にしたことで炎上したケース。
言葉と線の距離感。その地図の描き方。

ひと通り話し終えたとき、小さな拍手が起きた。
「方向性、すごくいいです」と広報部長。「社内の抵抗勢力(笑)に、どう通すかのところで、法務観点の言葉が強い味方になりますね」

御園生が軽く会釈する。
「内部の説得資料に載せるための質疑想定も、こちらで素案を出します」と私。
「お願いします。あと——」部長が身を乗り出す。「広告のビジュアル。人の距離がテーマだからこそ、恋愛っぽくなるのは避けたい。でも体温があるほうが伝わる。難しいですね」
「難しいほど、やりがいがあります」

ふと、視界の端に、空調の風でめくれた私の紙が映った。角が浮いて、今にも床に落ちそうだ。御園生が無言で手を伸ばしかけ——そこで止めた。
私も紙に指を滑らせ、そっと押さえる。目が合う。
彼は指先で空中に小さな四角形を描き、口の形だけで「クリップ」と言った。私はうなずき、ペン立てからクリップを取り出す。
——撫でるでも、触れるでもない。指さしの距離。
それで十分だった。

―――

会議が終わると、私たちはまとめの段取りをその場で手短に決めた。御園生は、クライアントの法務担当と追加の打合せに向かい、私は資料の回収を始める。
廊下に出ると、窓明かりが白く長く伸びていた。

「よかったよ」
背後から小声がして振り返ると、御園生が少し離れた場所に立っていた。
「距離の言い方、クライアントの目が変わってた」

「ありがとう。……さっき、紙の角、助かりました」
「いや。今日は指すまで。触れないのが、線引き」

互いに笑う。
廊下の端で、社用スマホが震えた。折原から。「今日のデッキ、クライアントに共有済み。明朝、社内向けに要点まとめて」。
私は「了解」と返す。

「じゃあ、私はこれで」
「うん。気をつけて。——名札、似合ってる」

唐突な言葉に、私は立ち止まった。
御園生はすぐ続ける。「職権外の感想」
「越境コメントですね」
「たまには」

軽い会釈を交わして、別々の方角へ歩く。
エレベーターの中、ステンレスの壁に映る自分の胸元で、新しい名札が小さく揺れた。

―――

帰社して、社内向けのサマリーを書く。
・スローガン案:越えない自由、選べる距離
・同意の更新と撤回導線をUIに反映
・匿名化という語の扱いに注意(広告表現では具体に)
・内部説得用Q&A素案を明日午前に提出

書き上げて送信すると、オフィスの時計は十八時を少し回っていた。
坂梨が肩を回しながら伸びをする。「先輩、今日は顔がまっすぐですね」
「まっすぐ?」
「なんか、前より。視線が」

私は笑って席を立つ。
「まっすぐ、ね。——うん、今日はそうかも」

帰り際、受付の前で足を止める。午前中に差し替えた名札が、薄いライトに照らされている。透明の板の中で、文字が静かに呼吸しているように見えた。

ポケットでスマホが震えた。御園生からのメール。

> 件名:今日の補足
本文:
選べる距離の実装例を三つ、メモに追記しました。
・オンボーディング時の段階同意
・タイムライン上での同意変更UI
・撤回後のフリクション低減策
余談ですが、名札のフォント、明朝はやはり良い。
以上、職権外の最後の一文。おやすみではなく、おつかれさま。



私は短く返す。

> 件名:Re: 今日の補足
本文:
受け取りました。明日反映します。
余談への返信:境界線の外から届く感想は、時々ちょうどいいです。
以上、越境コメントへの礼。



送信を終えて、名札にもう一度目をやる。
撫でる手は、今日は伸びてこなかった。代わりに、指先で指し示される小さな四角があった。紙の角を落とさないための、四角い金具。
境界線に沿って置かれた、ささやかな配慮。

カードキーをかざす。今度は一度で緑に光った。
ビルの外に出ると、夜風が少しだけ秋の匂いを混ぜていた。

——越えない自由、選べる距離。
口の中でそっと繰り返す。今日の私に、よく馴染む響きだった。
そして、その距離は、誰かと並ぶための余白にもなる。

歩き出すと、街の明かりが足元の影を伸ばした。
新しい名前が、仕事場の空気に馴染んでいく音がする。
私はその音を背に、まっすぐ家へ向かった。
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