臆病なあなたの、不完全な愛し方
一
「本当に綺麗なお月さま……」
雲一つない夜空に輝く満月を見ながら、星野真奈美は感嘆をもらした。
今日は中秋の名月。
夜の闇を押しのけんばかりに眩い光を放つ満月は、目に映るすべてを優しく照らしていた。
歩道橋の上では、他にも数人が立ち止まって月を見上げ、同行者と思い思いの感想を述べたり、写真を撮っていた。
この美しい月の光に照らされれば、心に巣くう暗澹たる思いも少しは和らぐだろうか。
通行の妨げにならないよう端に寄り、真奈美はブルーライトが眩しい画面に目をやった。
『星野様のこれからのご活躍を心よりお祈り申し上げます。』
先ほど読んだばかりの無機質な結びが、光を蝕む呪いのように暗く真奈美の心を覆った。
こんな、顔も知らない誰かからのテンプレートメールで、心にもないお祈りをされる未来など、ひと月前の真奈美はまったく想像していなかった。
もしこのまま、どこにも採用されなかったら?
気を抜くと、望まぬ未来のことを脳が勝手に想像してしまう。
胸の奥がチリッとひりついた。
選ばなければ仕事があるのはわかっているし、健康な体と働く意欲さえあれば、なんとかやっていけるとは考えていた。
しかしできれば、六年間働いてきた経験を活かせる業界に再就職したかった。
せっかくこれまで積み上げてきたキャリアを無駄にはしたくない。
真奈美は再び月を見上げた。
「この満月に願えば、次こそは採用されるかな」
欄干に寄りかかると、履きなれないパンプスでむくんだ足が、しばらく休みたいと訴えてきた。
どうせ電車はまだ混んでいるし、人混みを掻き分ける元気もない。
それならここで美しい月を眺めながら、いい会社とご縁があるよう願ってみようと真奈美は考えた。
地平線へ向かって真っ直ぐ伸びる八本の道路と、その上に広がる空。そして満月。
浅くなっていた呼吸が、だんだんと深く穏やかになっていくのを感じた。今朝起きてから初めて、まともに息ができた気がする。
足元では忙しなく車が流れているが、高さのおかげか、風向きのおかげか、幸い排気ガスの嫌な匂いは漂ってこない。
「伊山さんに相談できたらいいのにな」
思わず口にして、ふっと笑う。
伊山誠二の連絡先は知っている。
二年前に伊山が会社を辞めるとき、「なにかあったらいつでも連絡してこい」と言ってくれたことも覚えている。
しかし、真奈美は一度も連絡しなかった。
連絡しないことで、伊山の育てた部下が一人でも立派にやっていると伝えたかったのだ。
『強がってるだけだろ』
記憶の中の伊山が、呆れた顔で真奈美に言った。
「強がりたいからいいんですー」
夏の余韻を残した風が、真奈美のひとりごとをのせて、通り過ぎていった。
「星野?」
不意に名前を呼ばれて反射的に振り向くと、シンプルなシャツとスラックス姿の男性がこちらを見ていた。
少し距離があるため、はっきりと顔を認識することはできないが、この声と立ち姿で思い当たる人物は一人しかいない。
そしてその人とは――先ほど脳内で邂逅を果たしたばかりだ。
真奈美は、息をのんだ。
跳ねる心臓をなんとか押さえつけて、やっとの思いで声をしぼり出した。
「伊山さん……ですか?」
その応答に確信を得たかつての上司は、スマートフォンを鞄にしまい、真奈美の近くまで歩いてきた。
さらりと流れる黒髪、意志の強さを感じる目と口角の上がった口元は、記憶の中の上司と相違ない。
「やっぱり星野だった。久しぶりだな」
「お、ひさしぶりです。……本物ですか?」
「は?」
「すいません! 私の願望が作り出した幻かと思いまして!」
伊山がしたり顔になるのに時間はかからなかった。
「……なるほど。俺に会いたかったわけか」
「いえ! そういうわけでは!」
「なんだ、会いたくなかったのか」
「え! いや、そういうわけでもなくて!」
真奈美は慌てて両手を振った。
元部下の昔と変わらない挙動に、思わず伊山は噴き出した。
「変わってないな」
「そ、そんなことはないですよ。伊山さんから卒業して、私はさらなる成長を遂げたんです」
「なるほど、それは素晴らしい」
真奈美は、深呼吸をすることで、未だ暴れる心臓をなんとか落ち着かせようとした。
「ここへは打ち合わせかなにかか?」
『打ち合わせ』を拡大解釈すれば、そこに採用面接も含まれるはずだ。
「はい、打ち合わせです」
精一杯の強がりで、真奈美は笑顔を貼りつけた。
満月の光に照らされて、伊山の表情がよく見えた。ということは、真奈美の表情も伊山によく見えているだろう。
ふっと伊山が微笑んだ。
「相変わらず、嘘が下手だな。そして強がりだ」
伊山の言葉に、真奈美は目を見開いた。
「嘘じゃないです。広義では『打ち合わせ』です。……たぶん」
「『強情』も付け足す」
「……すいません」
真奈美は肩を落とした。心臓は落ち着きを取り戻したが、伊山と目を合わせることができなかった。
「別に、追及したいわけじゃない。元部下が元気でやってるのか気になるだけだ」
「元気……です」
「そうか。じゃあ、今から俺に付き合って飯に行くことは可能だな」
「え!」
「まだだろ? 晩飯」
「……はい」
「決まりだ」
雲一つない夜空に輝く満月を見ながら、星野真奈美は感嘆をもらした。
今日は中秋の名月。
夜の闇を押しのけんばかりに眩い光を放つ満月は、目に映るすべてを優しく照らしていた。
歩道橋の上では、他にも数人が立ち止まって月を見上げ、同行者と思い思いの感想を述べたり、写真を撮っていた。
この美しい月の光に照らされれば、心に巣くう暗澹たる思いも少しは和らぐだろうか。
通行の妨げにならないよう端に寄り、真奈美はブルーライトが眩しい画面に目をやった。
『星野様のこれからのご活躍を心よりお祈り申し上げます。』
先ほど読んだばかりの無機質な結びが、光を蝕む呪いのように暗く真奈美の心を覆った。
こんな、顔も知らない誰かからのテンプレートメールで、心にもないお祈りをされる未来など、ひと月前の真奈美はまったく想像していなかった。
もしこのまま、どこにも採用されなかったら?
気を抜くと、望まぬ未来のことを脳が勝手に想像してしまう。
胸の奥がチリッとひりついた。
選ばなければ仕事があるのはわかっているし、健康な体と働く意欲さえあれば、なんとかやっていけるとは考えていた。
しかしできれば、六年間働いてきた経験を活かせる業界に再就職したかった。
せっかくこれまで積み上げてきたキャリアを無駄にはしたくない。
真奈美は再び月を見上げた。
「この満月に願えば、次こそは採用されるかな」
欄干に寄りかかると、履きなれないパンプスでむくんだ足が、しばらく休みたいと訴えてきた。
どうせ電車はまだ混んでいるし、人混みを掻き分ける元気もない。
それならここで美しい月を眺めながら、いい会社とご縁があるよう願ってみようと真奈美は考えた。
地平線へ向かって真っ直ぐ伸びる八本の道路と、その上に広がる空。そして満月。
浅くなっていた呼吸が、だんだんと深く穏やかになっていくのを感じた。今朝起きてから初めて、まともに息ができた気がする。
足元では忙しなく車が流れているが、高さのおかげか、風向きのおかげか、幸い排気ガスの嫌な匂いは漂ってこない。
「伊山さんに相談できたらいいのにな」
思わず口にして、ふっと笑う。
伊山誠二の連絡先は知っている。
二年前に伊山が会社を辞めるとき、「なにかあったらいつでも連絡してこい」と言ってくれたことも覚えている。
しかし、真奈美は一度も連絡しなかった。
連絡しないことで、伊山の育てた部下が一人でも立派にやっていると伝えたかったのだ。
『強がってるだけだろ』
記憶の中の伊山が、呆れた顔で真奈美に言った。
「強がりたいからいいんですー」
夏の余韻を残した風が、真奈美のひとりごとをのせて、通り過ぎていった。
「星野?」
不意に名前を呼ばれて反射的に振り向くと、シンプルなシャツとスラックス姿の男性がこちらを見ていた。
少し距離があるため、はっきりと顔を認識することはできないが、この声と立ち姿で思い当たる人物は一人しかいない。
そしてその人とは――先ほど脳内で邂逅を果たしたばかりだ。
真奈美は、息をのんだ。
跳ねる心臓をなんとか押さえつけて、やっとの思いで声をしぼり出した。
「伊山さん……ですか?」
その応答に確信を得たかつての上司は、スマートフォンを鞄にしまい、真奈美の近くまで歩いてきた。
さらりと流れる黒髪、意志の強さを感じる目と口角の上がった口元は、記憶の中の上司と相違ない。
「やっぱり星野だった。久しぶりだな」
「お、ひさしぶりです。……本物ですか?」
「は?」
「すいません! 私の願望が作り出した幻かと思いまして!」
伊山がしたり顔になるのに時間はかからなかった。
「……なるほど。俺に会いたかったわけか」
「いえ! そういうわけでは!」
「なんだ、会いたくなかったのか」
「え! いや、そういうわけでもなくて!」
真奈美は慌てて両手を振った。
元部下の昔と変わらない挙動に、思わず伊山は噴き出した。
「変わってないな」
「そ、そんなことはないですよ。伊山さんから卒業して、私はさらなる成長を遂げたんです」
「なるほど、それは素晴らしい」
真奈美は、深呼吸をすることで、未だ暴れる心臓をなんとか落ち着かせようとした。
「ここへは打ち合わせかなにかか?」
『打ち合わせ』を拡大解釈すれば、そこに採用面接も含まれるはずだ。
「はい、打ち合わせです」
精一杯の強がりで、真奈美は笑顔を貼りつけた。
満月の光に照らされて、伊山の表情がよく見えた。ということは、真奈美の表情も伊山によく見えているだろう。
ふっと伊山が微笑んだ。
「相変わらず、嘘が下手だな。そして強がりだ」
伊山の言葉に、真奈美は目を見開いた。
「嘘じゃないです。広義では『打ち合わせ』です。……たぶん」
「『強情』も付け足す」
「……すいません」
真奈美は肩を落とした。心臓は落ち着きを取り戻したが、伊山と目を合わせることができなかった。
「別に、追及したいわけじゃない。元部下が元気でやってるのか気になるだけだ」
「元気……です」
「そうか。じゃあ、今から俺に付き合って飯に行くことは可能だな」
「え!」
「まだだろ? 晩飯」
「……はい」
「決まりだ」
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