臆病なあなたの、不完全な愛し方
「提案したのは私ですから……」
伊山の背後で、か細い声が聞こえた。
星野がソファーを離れ、自席で何かをしている音がする。
「今日はもう失礼しますね」
かけられた声に振り向くと、星野が逃げるように執務スペースから出ていった。
「当たり前だ……」
伊山は星野のいなくなったソファーに沈み込んだ。
星野の提案に乗るべきではなかった。
こうなることは目に見えていた。
しかし、「仕事」という免罪符を与えられ、自分とのキスを望む星野を前にしたとき、その甘すぎる誘惑に抗うことができなかった。
星野に「了解」と答えた時点では、本当に軽く触れるだけでキスを終えるつもりだった。
「仕事」だとお互いに言えるラインはそこまでだと考えていた。
最初に抱き寄せたのが失敗だった。
腕の中に星野の小さな体を抱いたとき、離したくないと思ってしまったのだ。
そして、軽く触れるだけのキス。
そこで止めることができるほどの強力な理性の持ち主ならば、そもそもこんな提案には乗っていない。
伊山の理性は仕事を放棄した。
そう遠くないうちに、星野には堂々と触れたいと思っていた。
でもそれは、きちんと自分の気持ちを星野に伝え、受け入れてもらった後の話だ。
順番を間違えた挙句、己の欲望を身勝手にぶつけてしまった自分が、今さら星野に何を伝えられると言うのだろう。
そこまで思考したとき、執務スペースの扉が開く音がした。
少しだけ開けられた隙間から星野が中をのぞき、何かを見つけたような表情をした。
そのまま中に入ろうとしたとき、ソファーに座って自分を見ている伊山に気づくと、慌てて扉を閉めた。
星野の見ていた方向、彼女のデスクに行くと、スマートフォンが置いてあった。
会社のではない、星野個人のだ。
「これを取りに戻ったのか」
星野のスマートフォンを手にしたとき、あることに気づいた。
「泣いてた……?」
確証は持てない。
いや、事実はどうだっていい。
もし、この状況で星野が泣いている可能性があるとしたら、それはつまりどういうことだ?
伊山は先程の出来事を星野の立場になって追想した。
あのとき、彼女が一番欲していた言葉はもしかして――。
「間違えた……!」
伊山は、星野のスマートフォンを掴んでオフィスを飛び出した。
星野を追って、駅までの道をひた走る。
順番なんてどうでもよかった。
建前のための立場なんてさっさと捨てるべきだった。
一つ目の角を曲がった。
星野の姿は見えない。
星野がオフィスを出てから何分経った?
電車に乗ってしまう前に、星野に追いつくことはできるか?
二つ目の角を曲がった。
星野の姿は見えない。
なんとしても追いついて、彼女に伝えなければ。
いや、伝えたい!
歩道橋の階段が見えた。
一段飛ばしで一気に駆け上がる。
階段を上り切り、歩道橋の上に出た。
駅までの長い道の上に星野の姿は見当たらない。
それなら駅のホームまで走るだけだ。
そう考えて、伊山が再び走り出そうとしたとき、欄干に身を預けた女性の姿が目に入った。
伊山は走るのをやめ、一歩一歩ゆっくりとその女性に近づいた。
女性は、空に輝く満月を見ていた。
星野だった。
「星野」
何度呼んだか知れないその名前を、伊山は大事に口にした。
振り向いた星野の顔はこわばっていた。
片足を引き、伊山から距離を取ろうとしている。
手を伸ばせば触れられる距離まで伊山が近づいたとき、星野が少し大きな声を出した。
「今は……!」
伊山の足が止まった。
「今は話せる状況じゃないので、明日にしてください」
そう言った星野の声が震えていた。やはり泣いていたようだ。
自分が星野を泣かせてしまったという事実を伊山は重く受け止めた。
伊山がまた足を踏み出すと、星野は逃げるように背を向けた。
そしてそこから走り去ろうとしたとき――。
伊山が星野の腕を引き、その小さな体を抱きしめた。
抵抗し、腕の中で身じろぎする星野を、さらに強く抱きしめた。
星野にちゃんと伝わるように、顔を寄せ、最大限の気持ちを込めて言葉にした。
「好きだよ」
星野が抵抗するのをやめた。
「星野のことが、好きで好きでたまらない。星野が初めてオフィスに来た日から、星野のことばかり考えてた」
硬くなっていた星野の体から力が抜けていく。
「本当は俺も星野に触れたかった。こんなふうに、抱きしめたかったし、キスだってしたかった。その先を想像して眠れない夜もあった」
腕の中の星野が息をのむのがわかった。
「『雇用主と従業員』っていう建前を利用して、自分を守ってた。そのせいで星野に辛い思いをさせてごめん。悲しませてごめん」
伊山は星野を抱きしめ直した。
「俺は傷つくのが怖かった。愛する人を失うのが怖かった。失うくらいならもう誰も愛したくなかった。でも星野の愛は欲しかった。ずっと星野に甘えてた。卑怯で臆病な男だったんだ」
伊山の声に苦渋が滲む。
星野は伊山の背中に手を回し、優しく抱きしめた。
伊山は、星野の体温を感じたかった。
目を閉じて腕の中の存在をゆっくりと確かめた。
「でも、もう逃げるのはやめる」
伊山は腕を解き、星野の目を見つめた。
星野の目には涙が溜まっている。
「星野を愛したいんだ。幸せにしたい。笑顔を守りたい。そのためなら傷ついたって構わない。恐れだって乗り越えてみせる」
瞬きと同時に、星野の頰に大粒の涙がこぼれた。
美しい涙だった。
伊山は、次の言葉を口にすることに少し緊張した。
一度口を引き結ぶ。
伊山を見つめる星野の優しい眼差しが、伝える勇気をくれた。
「だからこれからも、俺の隣にいてください」
「はい」
月明かりに照らされた星野の顔は、夜空の満月よりも輝いていた。
伊山の背後で、か細い声が聞こえた。
星野がソファーを離れ、自席で何かをしている音がする。
「今日はもう失礼しますね」
かけられた声に振り向くと、星野が逃げるように執務スペースから出ていった。
「当たり前だ……」
伊山は星野のいなくなったソファーに沈み込んだ。
星野の提案に乗るべきではなかった。
こうなることは目に見えていた。
しかし、「仕事」という免罪符を与えられ、自分とのキスを望む星野を前にしたとき、その甘すぎる誘惑に抗うことができなかった。
星野に「了解」と答えた時点では、本当に軽く触れるだけでキスを終えるつもりだった。
「仕事」だとお互いに言えるラインはそこまでだと考えていた。
最初に抱き寄せたのが失敗だった。
腕の中に星野の小さな体を抱いたとき、離したくないと思ってしまったのだ。
そして、軽く触れるだけのキス。
そこで止めることができるほどの強力な理性の持ち主ならば、そもそもこんな提案には乗っていない。
伊山の理性は仕事を放棄した。
そう遠くないうちに、星野には堂々と触れたいと思っていた。
でもそれは、きちんと自分の気持ちを星野に伝え、受け入れてもらった後の話だ。
順番を間違えた挙句、己の欲望を身勝手にぶつけてしまった自分が、今さら星野に何を伝えられると言うのだろう。
そこまで思考したとき、執務スペースの扉が開く音がした。
少しだけ開けられた隙間から星野が中をのぞき、何かを見つけたような表情をした。
そのまま中に入ろうとしたとき、ソファーに座って自分を見ている伊山に気づくと、慌てて扉を閉めた。
星野の見ていた方向、彼女のデスクに行くと、スマートフォンが置いてあった。
会社のではない、星野個人のだ。
「これを取りに戻ったのか」
星野のスマートフォンを手にしたとき、あることに気づいた。
「泣いてた……?」
確証は持てない。
いや、事実はどうだっていい。
もし、この状況で星野が泣いている可能性があるとしたら、それはつまりどういうことだ?
伊山は先程の出来事を星野の立場になって追想した。
あのとき、彼女が一番欲していた言葉はもしかして――。
「間違えた……!」
伊山は、星野のスマートフォンを掴んでオフィスを飛び出した。
星野を追って、駅までの道をひた走る。
順番なんてどうでもよかった。
建前のための立場なんてさっさと捨てるべきだった。
一つ目の角を曲がった。
星野の姿は見えない。
星野がオフィスを出てから何分経った?
電車に乗ってしまう前に、星野に追いつくことはできるか?
二つ目の角を曲がった。
星野の姿は見えない。
なんとしても追いついて、彼女に伝えなければ。
いや、伝えたい!
歩道橋の階段が見えた。
一段飛ばしで一気に駆け上がる。
階段を上り切り、歩道橋の上に出た。
駅までの長い道の上に星野の姿は見当たらない。
それなら駅のホームまで走るだけだ。
そう考えて、伊山が再び走り出そうとしたとき、欄干に身を預けた女性の姿が目に入った。
伊山は走るのをやめ、一歩一歩ゆっくりとその女性に近づいた。
女性は、空に輝く満月を見ていた。
星野だった。
「星野」
何度呼んだか知れないその名前を、伊山は大事に口にした。
振り向いた星野の顔はこわばっていた。
片足を引き、伊山から距離を取ろうとしている。
手を伸ばせば触れられる距離まで伊山が近づいたとき、星野が少し大きな声を出した。
「今は……!」
伊山の足が止まった。
「今は話せる状況じゃないので、明日にしてください」
そう言った星野の声が震えていた。やはり泣いていたようだ。
自分が星野を泣かせてしまったという事実を伊山は重く受け止めた。
伊山がまた足を踏み出すと、星野は逃げるように背を向けた。
そしてそこから走り去ろうとしたとき――。
伊山が星野の腕を引き、その小さな体を抱きしめた。
抵抗し、腕の中で身じろぎする星野を、さらに強く抱きしめた。
星野にちゃんと伝わるように、顔を寄せ、最大限の気持ちを込めて言葉にした。
「好きだよ」
星野が抵抗するのをやめた。
「星野のことが、好きで好きでたまらない。星野が初めてオフィスに来た日から、星野のことばかり考えてた」
硬くなっていた星野の体から力が抜けていく。
「本当は俺も星野に触れたかった。こんなふうに、抱きしめたかったし、キスだってしたかった。その先を想像して眠れない夜もあった」
腕の中の星野が息をのむのがわかった。
「『雇用主と従業員』っていう建前を利用して、自分を守ってた。そのせいで星野に辛い思いをさせてごめん。悲しませてごめん」
伊山は星野を抱きしめ直した。
「俺は傷つくのが怖かった。愛する人を失うのが怖かった。失うくらいならもう誰も愛したくなかった。でも星野の愛は欲しかった。ずっと星野に甘えてた。卑怯で臆病な男だったんだ」
伊山の声に苦渋が滲む。
星野は伊山の背中に手を回し、優しく抱きしめた。
伊山は、星野の体温を感じたかった。
目を閉じて腕の中の存在をゆっくりと確かめた。
「でも、もう逃げるのはやめる」
伊山は腕を解き、星野の目を見つめた。
星野の目には涙が溜まっている。
「星野を愛したいんだ。幸せにしたい。笑顔を守りたい。そのためなら傷ついたって構わない。恐れだって乗り越えてみせる」
瞬きと同時に、星野の頰に大粒の涙がこぼれた。
美しい涙だった。
伊山は、次の言葉を口にすることに少し緊張した。
一度口を引き結ぶ。
伊山を見つめる星野の優しい眼差しが、伝える勇気をくれた。
「だからこれからも、俺の隣にいてください」
「はい」
月明かりに照らされた星野の顔は、夜空の満月よりも輝いていた。
