二つの航路
エピローグ
その日は、珍しく二人とも完全なオフだった。
前夜のメッセージで遼が「朝から空けておけ」とだけ告げてきたので、美桜は少し早起きし、私服選びに迷った。
空の下で会う彼は、もう機長ではない。
でも、私の知っている遼はほとんどが制服姿だったから、私服で並ぶ自分たちを想像すると、不思議な緊張が走る。
待ち合わせは、羽田空港のロビー。
いつものように制服姿の彼が立っているはずもなく、そこにいたのは、紺のジャケットに白いシャツ、デニムというラフな服装の遼だった。
髪も少し無造作で、仕事中の凛とした雰囲気とは違う柔らかさがある。
「……おはようございます」
「勤務じゃないんだから、“おはようございます”はやめろ」
笑いながらも、その目はいつも通りまっすぐだった。
ふいに、手を差し出される。
「今日は規定違反じゃない。遠慮する理由はない」
少し戸惑いながらも、その手を取る。
指先が触れた瞬間、どこかで張り詰めていた糸がふっと緩んだ。
遼が連れて行ったのは、羽田から車で一時間ほどの海沿いの街。
冬の朝の光は冷たく澄んでいて、港に停泊する白い船がきらきらと輝いていた。
人気の少ない遊歩道を歩きながら、美桜はつい笑ってしまう。
「海辺を歩くなんて……仕事以外で飛行機の見えるところに行くのかと思ってました」
「それじゃ仕事の延長だろ。今日は空の下でも、飛行機のことは忘れよう」
「忘れられると思います?」
「……少なくとも、俺は無理だな」
笑いながらも、遼はその視線を海に向けた。
彼の横顔を、こんなにゆっくり見られる時間があることが、ただ嬉しかった。
小さなカフェで早めの昼食をとった。
窓から見える海を背に、遼は穏やかな声で話し出す。
「正式に承認が下りてから、まだ実感がない」
「私もです。つい誰かの視線を探してしまって」
「でも、これからは堂々と行ける。……それでも俺は、多分、仕事中はお前を見過ぎないように気をつける」
「どうしてですか」
「視線を向けたら、全部読まれる気がする」
そんなことを真顔で言うから、思わず吹き出してしまった。
食後、遼がカップに残ったコーヒーを口に運び、ふと真剣な声になる。
「なあ、美桜。あの頃……神崎が来たとき、お前が何も言わずに距離を取ったとき、本当に焦った」
「……」
「俺は人に対して言葉が足りない。お前にだけは、足りないままにしないつもりだったのに」
「……ちゃんと届いてます。遼の言葉、行動、全部」
静かなやり取りの中に、これまでのすれ違いの日々が溶けていくのを感じた。
午後は、港近くの展望デッキへ。
小型機が遠くを横切っていくのが見え、美桜は思わず指差す。
「あれ、ロンドン行きの便かな」
「……やっぱり飛行機の話になるな」
遼は笑い、そして不意に手を握り直す。
「空の下で過ごす時間が、これから先もずっと続くようにしたい」
その声は、冬の海風にも負けない温かさを帯びていた。
夕暮れが迫る頃、二人は海沿いのベンチに並んで座った。
西の空がオレンジから紫へと変わり、波音がゆったりと響く。
遼がポケットから小さな箱を取り出す。
「まだ早いかもしれない。でも……渡したい」
開かれた中には、シンプルな銀のリングがあった。
「約束の印だ。仕事の都合でいつも一緒にはいられないが、これがあれば迷わない」
美桜は息を呑み、ゆっくりと頷く。
「……ありがとうございます。大切にします」
指にリングが滑り込む感触は、これまでのすべてを肯定するように温かかった。
帰り道、空港の灯が遠くに瞬いていた。
遼が運転する横で、美桜はその光を見つめる。
きっとまた、すれ違う日もあるだろう。
けれど、そのたびに今日を思い出す。
――空の下で交わした、真っ直ぐな約束を。
車内の静けさの中で、遼がふと口を開く。
「次の休みは、どこに行きたい?」
「……海も好きですけど、やっぱり空が近い場所がいいです」
「なら、飛行機の見える丘だな」
その言葉に、美桜は笑い、窓の外の夜空を見上げた。
そこには、変わらず月と星と、二人をつなぐ航路が広がっていた。
前夜のメッセージで遼が「朝から空けておけ」とだけ告げてきたので、美桜は少し早起きし、私服選びに迷った。
空の下で会う彼は、もう機長ではない。
でも、私の知っている遼はほとんどが制服姿だったから、私服で並ぶ自分たちを想像すると、不思議な緊張が走る。
待ち合わせは、羽田空港のロビー。
いつものように制服姿の彼が立っているはずもなく、そこにいたのは、紺のジャケットに白いシャツ、デニムというラフな服装の遼だった。
髪も少し無造作で、仕事中の凛とした雰囲気とは違う柔らかさがある。
「……おはようございます」
「勤務じゃないんだから、“おはようございます”はやめろ」
笑いながらも、その目はいつも通りまっすぐだった。
ふいに、手を差し出される。
「今日は規定違反じゃない。遠慮する理由はない」
少し戸惑いながらも、その手を取る。
指先が触れた瞬間、どこかで張り詰めていた糸がふっと緩んだ。
遼が連れて行ったのは、羽田から車で一時間ほどの海沿いの街。
冬の朝の光は冷たく澄んでいて、港に停泊する白い船がきらきらと輝いていた。
人気の少ない遊歩道を歩きながら、美桜はつい笑ってしまう。
「海辺を歩くなんて……仕事以外で飛行機の見えるところに行くのかと思ってました」
「それじゃ仕事の延長だろ。今日は空の下でも、飛行機のことは忘れよう」
「忘れられると思います?」
「……少なくとも、俺は無理だな」
笑いながらも、遼はその視線を海に向けた。
彼の横顔を、こんなにゆっくり見られる時間があることが、ただ嬉しかった。
小さなカフェで早めの昼食をとった。
窓から見える海を背に、遼は穏やかな声で話し出す。
「正式に承認が下りてから、まだ実感がない」
「私もです。つい誰かの視線を探してしまって」
「でも、これからは堂々と行ける。……それでも俺は、多分、仕事中はお前を見過ぎないように気をつける」
「どうしてですか」
「視線を向けたら、全部読まれる気がする」
そんなことを真顔で言うから、思わず吹き出してしまった。
食後、遼がカップに残ったコーヒーを口に運び、ふと真剣な声になる。
「なあ、美桜。あの頃……神崎が来たとき、お前が何も言わずに距離を取ったとき、本当に焦った」
「……」
「俺は人に対して言葉が足りない。お前にだけは、足りないままにしないつもりだったのに」
「……ちゃんと届いてます。遼の言葉、行動、全部」
静かなやり取りの中に、これまでのすれ違いの日々が溶けていくのを感じた。
午後は、港近くの展望デッキへ。
小型機が遠くを横切っていくのが見え、美桜は思わず指差す。
「あれ、ロンドン行きの便かな」
「……やっぱり飛行機の話になるな」
遼は笑い、そして不意に手を握り直す。
「空の下で過ごす時間が、これから先もずっと続くようにしたい」
その声は、冬の海風にも負けない温かさを帯びていた。
夕暮れが迫る頃、二人は海沿いのベンチに並んで座った。
西の空がオレンジから紫へと変わり、波音がゆったりと響く。
遼がポケットから小さな箱を取り出す。
「まだ早いかもしれない。でも……渡したい」
開かれた中には、シンプルな銀のリングがあった。
「約束の印だ。仕事の都合でいつも一緒にはいられないが、これがあれば迷わない」
美桜は息を呑み、ゆっくりと頷く。
「……ありがとうございます。大切にします」
指にリングが滑り込む感触は、これまでのすべてを肯定するように温かかった。
帰り道、空港の灯が遠くに瞬いていた。
遼が運転する横で、美桜はその光を見つめる。
きっとまた、すれ違う日もあるだろう。
けれど、そのたびに今日を思い出す。
――空の下で交わした、真っ直ぐな約束を。
車内の静けさの中で、遼がふと口を開く。
「次の休みは、どこに行きたい?」
「……海も好きですけど、やっぱり空が近い場所がいいです」
「なら、飛行機の見える丘だな」
その言葉に、美桜は笑い、窓の外の夜空を見上げた。
そこには、変わらず月と星と、二人をつなぐ航路が広がっていた。