二つの航路

番外編 出会う前のふたり

 東條遼が初めて「操縦席」に座ったのは、訓練校のシミュレーター室だった。
 まだ制服も着慣れず、計器の配列を暗記するのに必死で、周囲を見る余裕などない。
 だが、初めて操縦桿に触れたときの感覚は今も鮮明だ。
 自分の動き一つで機体が応える、その正確さと重み。
 その瞬間、心のどこかで「一生、この席に座る」と決めていた。

     

 訓練時代、遼は感情を表に出すのが苦手だった。
 喜びも悔しさも、表情にはほとんど現れない。
 同じコースの仲間からは「冷静」や「落ち着いている」と言われたが、本当は余裕などなかった。
 ただ、焦りや不安を見せれば、自分の精度が崩れる気がしていた。

 中でも神崎玲奈は、数少ない同等の実力を持つ同期だった。
 競い合う相手としては申し分なく、時に助け合いもした。
 だがそれ以上の関係を築く気はなかった。
 遼にとって、その頃は空のこと以外に心を割く余裕がなかったのだ。

     

 副操縦士としての初配属は、国内線の短距離路線。
 毎日のように同じ空港を行き来し、離着陸を繰り返す日々。
 規定と安全、正確さだけを追い求め、私生活は淡々としていた。
 休みの日は空港近くの安ホテルに籠り、翌日の航路の予習をする。
 同僚からは「もっと遊べ」と言われたが、遼にはその必要性がわからなかった。

 ——その頃から、心の奥で少しだけ欠けていた。
 何かを守るために、自分の感情ごと切り捨てる癖。
 それは訓練時代から続く、生き残るための手段でもあった。

     

 数年後、国際線への異動辞令が下りた。
 初めての長距離路線、時間差、現地滞在。
 それらは新鮮でありながらも、やはり遼の生活は“仕事一色”だった。
 クルーの会話に入っても、必要以上に笑わない。
 誰かと親しくなりすぎれば、私情が職務に影響するのではないかという恐れがあった。

 ——あの日までは。

 成田発の欧州便。
 新人のキャビンアテンダントが、挨拶に来た。
 はきはきとした声、けれどその奥に少しの緊張が見える。
 その名札には「MIO」の文字。
 遼はそのとき、自分でも理由がわからないまま、その名前を心の奥に刻みつけた。

     

 それからの日々は、少しずつ変わっていった。
 視界の端で彼女が笑えば、自分の口元もわずかに緩む。
 彼女が客席で乗客と話す声が聞こえると、耳が自然とそちらを拾う。
 そんな自分に気づき、戸惑った。
 これまで“必要なこと以外”を切り捨ててきた自分が、なぜ彼女のことだけは切り離せないのか。

 美桜は、遼が封じてきた感情を少しずつ揺らし、解かしていった。
 彼にとってはそれが、怖くもあり、どうしようもなく惹かれる理由でもあった。

     

 ——だからこそ、本編のすれ違いの日々は、遼にとって苦痛だった。
 彼は感情をうまく渡せない。
 でも、渡したいと思える相手は、人生で初めてだった。

 出会う前の彼は、ただ空を飛ぶことだけを生きる理由にしていた。
 出会った後の彼は、空を飛ぶ先に、必ず“彼女が待つ場所”を想像するようになった。

 そして今も、その場所は変わらない。
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