二つの航路
第三章 沈黙の理由
シンガポール便からの帰国後、数日間のオフを経て、美桜は再び成田空港へと足を運んでいた。
ロビーは早朝にもかかわらず活気に満ち、アナウンスが絶え間なく流れている。スーツケースを押す旅行客の笑顔や、ビジネスマンの引き締まった横顔が入り混じり、空港独特の熱を帯びた空気を作っていた。
今日の行き先は、ニューヨーク。往復で丸二日を費やす長距離便だ。
ブリーフィングルームに入ると、すでに数人の乗務員が席に着き、書類を確認していた。その中に、またもや直哉の姿があった。
美桜と目が合うと、彼は軽く手を挙げて笑う。
「また一緒か」と声をかけられ、美桜も笑って頷いた。
そのやり取りの一部始終を、部屋の隅に立つ遼は黙って見ていた。
表情はいつも通り変わらない。だが、ほんのわずかに視線が鋭くなるのを、美桜は気づかずにいた。
離陸から数時間後。
巡航高度に達した機内は、落ち着いた照明に包まれ、乗客たちはそれぞれの時間を過ごしている。
ギャレーでカトラリーを整えていると、森川が背後から声をかけてきた。
「ねえ、あの直哉くんって、美桜ちゃんの同期なんでしょ?」
「ええ、訓練学校からの仲で…気心知れてます」
「ふーん。息ぴったりに見えるから、てっきり付き合ってるのかと思った」
軽い冗談のように聞こえたその言葉が、美桜の耳に残った。笑って否定しようとした瞬間、背後で物音がした。
振り向くと、そこには遼が立っていた。
表情は変わらず、視線は書類の束に落とされている。
だが、その場の空気が一瞬だけ張り詰めたのを、美桜は確かに感じ取った。
その後のサービス中、遼は必要最低限の指示しか出さなかった。
会話らしい会話もなく、視線もほとんど合わない。
以前のように淡々としているはずなのに、その淡白さが今日はやけに冷たく感じられる。
――やっぱり、嫌われた?
胸の奥に小さな疑問が膨らみ、飲み込んでも苦さが残った。
夜間の客室。
通路を歩くと、ほとんどの乗客が眠っている。薄暗い照明の中、窓の外には遠くに街の明かりが点々と瞬いていた。
ふと、前方ギャレーで遼と森川が話しているのが見える。
森川が柔らかく笑い、遼が短く頷く。その自然な距離感は、あまりにも馴染んでいて、そこに自分の入り込む余地はないように思えた。
――この二人には、私の知らない時間がある。
そう思うと、足が前に進まなくなり、無意味に水を汲むふりをして引き返した。
ニューヨーク到着後のホテル。
部屋の窓からは摩天楼が見え、夜の街がきらびやかに輝いている。
ベッドに腰を下ろした美桜は、携帯を手に取った。
画面には、直哉からのメッセージ。
――明日、少し街を歩かない? 時差ぼけ防止にもなるし。
短く「いいよ」と返信する。
別に深い意味はない。けれど、もし遼に見られたら、また誤解されるかもしれない――そんな予感が一瞬、頭をかすめた。
翌日。
ホテルのロビーで直哉と合流し、近くのカフェに入った。大きな窓からは冬のニューヨークの街並みが広がり、吐く息が白く浮かぶ人々が足早に歩いている。
温かいコーヒーを手に、仕事のこと、将来のことを話す。
「海外拠点、本気で考えてるんだな」
直哉の穏やかな声に、美桜は頷いた。
――そのとき、カフェの外を通り過ぎる長身の影に気づいた。遼だ。
コートの襟を立て、視線を前に向けたまま、こちらには気づかない様子で歩き去っていく。
胸の奥がきゅっと締めつけられた。
復路の便。
離陸前の最終確認をしていると、遼の声が飛んだ。
「安全確認、終わったらすぐ席に戻れ」
その口調は淡々としているのに、どこか硬い。
美桜は短く「はい」と答え、胸の奥に小さな棘を残したまま持ち場へ戻った。
長いフライトの中、必要以上に会話はなかった。視線が合うこともなく、同じ空間にいるはずなのに、まるで遠く離れているような感覚だけが残った。
成田到着後。
ゲートを出ると、遼は森川と何かを話していた。
森川が笑い、遼も口元をわずかに緩める。
――私と話すとき、あんな顔は見せない。
その事実だけが、美桜の胸に重く沈んだ。
自分でも理由はわかっている。
ほんの少しだけ、期待してしまっていたのだ。
あの冷たいようで時折見せる微妙な優しさは、自分にだけ向けられたものではないかもしれないとわかっていながら、それでも――。
その夜、美桜は眠れなかった。
ロビーは早朝にもかかわらず活気に満ち、アナウンスが絶え間なく流れている。スーツケースを押す旅行客の笑顔や、ビジネスマンの引き締まった横顔が入り混じり、空港独特の熱を帯びた空気を作っていた。
今日の行き先は、ニューヨーク。往復で丸二日を費やす長距離便だ。
ブリーフィングルームに入ると、すでに数人の乗務員が席に着き、書類を確認していた。その中に、またもや直哉の姿があった。
美桜と目が合うと、彼は軽く手を挙げて笑う。
「また一緒か」と声をかけられ、美桜も笑って頷いた。
そのやり取りの一部始終を、部屋の隅に立つ遼は黙って見ていた。
表情はいつも通り変わらない。だが、ほんのわずかに視線が鋭くなるのを、美桜は気づかずにいた。
離陸から数時間後。
巡航高度に達した機内は、落ち着いた照明に包まれ、乗客たちはそれぞれの時間を過ごしている。
ギャレーでカトラリーを整えていると、森川が背後から声をかけてきた。
「ねえ、あの直哉くんって、美桜ちゃんの同期なんでしょ?」
「ええ、訓練学校からの仲で…気心知れてます」
「ふーん。息ぴったりに見えるから、てっきり付き合ってるのかと思った」
軽い冗談のように聞こえたその言葉が、美桜の耳に残った。笑って否定しようとした瞬間、背後で物音がした。
振り向くと、そこには遼が立っていた。
表情は変わらず、視線は書類の束に落とされている。
だが、その場の空気が一瞬だけ張り詰めたのを、美桜は確かに感じ取った。
その後のサービス中、遼は必要最低限の指示しか出さなかった。
会話らしい会話もなく、視線もほとんど合わない。
以前のように淡々としているはずなのに、その淡白さが今日はやけに冷たく感じられる。
――やっぱり、嫌われた?
胸の奥に小さな疑問が膨らみ、飲み込んでも苦さが残った。
夜間の客室。
通路を歩くと、ほとんどの乗客が眠っている。薄暗い照明の中、窓の外には遠くに街の明かりが点々と瞬いていた。
ふと、前方ギャレーで遼と森川が話しているのが見える。
森川が柔らかく笑い、遼が短く頷く。その自然な距離感は、あまりにも馴染んでいて、そこに自分の入り込む余地はないように思えた。
――この二人には、私の知らない時間がある。
そう思うと、足が前に進まなくなり、無意味に水を汲むふりをして引き返した。
ニューヨーク到着後のホテル。
部屋の窓からは摩天楼が見え、夜の街がきらびやかに輝いている。
ベッドに腰を下ろした美桜は、携帯を手に取った。
画面には、直哉からのメッセージ。
――明日、少し街を歩かない? 時差ぼけ防止にもなるし。
短く「いいよ」と返信する。
別に深い意味はない。けれど、もし遼に見られたら、また誤解されるかもしれない――そんな予感が一瞬、頭をかすめた。
翌日。
ホテルのロビーで直哉と合流し、近くのカフェに入った。大きな窓からは冬のニューヨークの街並みが広がり、吐く息が白く浮かぶ人々が足早に歩いている。
温かいコーヒーを手に、仕事のこと、将来のことを話す。
「海外拠点、本気で考えてるんだな」
直哉の穏やかな声に、美桜は頷いた。
――そのとき、カフェの外を通り過ぎる長身の影に気づいた。遼だ。
コートの襟を立て、視線を前に向けたまま、こちらには気づかない様子で歩き去っていく。
胸の奥がきゅっと締めつけられた。
復路の便。
離陸前の最終確認をしていると、遼の声が飛んだ。
「安全確認、終わったらすぐ席に戻れ」
その口調は淡々としているのに、どこか硬い。
美桜は短く「はい」と答え、胸の奥に小さな棘を残したまま持ち場へ戻った。
長いフライトの中、必要以上に会話はなかった。視線が合うこともなく、同じ空間にいるはずなのに、まるで遠く離れているような感覚だけが残った。
成田到着後。
ゲートを出ると、遼は森川と何かを話していた。
森川が笑い、遼も口元をわずかに緩める。
――私と話すとき、あんな顔は見せない。
その事実だけが、美桜の胸に重く沈んだ。
自分でも理由はわかっている。
ほんの少しだけ、期待してしまっていたのだ。
あの冷たいようで時折見せる微妙な優しさは、自分にだけ向けられたものではないかもしれないとわかっていながら、それでも――。
その夜、美桜は眠れなかった。