二つの航路

第四章 嵐の夜

 成田空港の滑走路脇を冷たい雨が打っていた。
 天気予報では、太平洋上空で前線の活動が活発化しており、目的地ホノルルまでの航路上に強い乱気流の可能性があると告げられていた。
 ブリーフィングルームの空気は、いつもよりわずかに緊張を帯びている。

 美桜は席に着き、配られた資料に目を通す。視線を上げると、前方で遼がパイロット席から立ち上がり、淡々と天候の説明をしていた。
「巡航高度では乱気流が予想される。サービス中も必ずシートベルト着用サインを確認してから行動を」
 声は低く落ち着いているが、目だけは真剣だった。

 その視線が一瞬、美桜をとらえた気がした。けれど、すぐに逸らされる。
 ――やっぱり、距離を置かれてる。
 胸の奥に冷たいものが広がる。

     

 離陸から二時間後、機体は予報通り揺れ始めた。
 通路を歩くたび、足元が不安定になり、ワゴンが小さく軋む。
 美桜は揺れに合わせて体を支えながら、飲み物を配っていた。
 そのとき、不意に大きな衝撃。ワゴンの上のカップが跳ね、水滴が宙に舞う。

「危ない!」
 背後から腕が伸び、ワゴンごと押さえ込まれる。
 遼だった。
 揺れの中、彼の手が自分の手に重なり、強く支えてくれる。
 耳元で低く短い声が落ちる。
「後ろに下がれ。ここは俺がやる」

 反射的に「はい」と答え、ワゴンから離れる。
 ほんの数秒の出来事だったが、心臓の鼓動は乱れたままだった。

     

 客室に戻ると、後方で幼い子どもが泣いているのが見えた。
 母親が必死にあやしているが、揺れのせいで不安が増しているようだった。
 美桜が声をかけようと近づくと、先に遼が膝を折り、子どもと目線を合わせていた。
「もうすぐ揺れはおさまるよ。外を見てごらん」
 操縦席から持ってきたという小さな飛行機の模型を差し出す。
 泣き声が次第に小さくなり、子どもは模型を握ったまま母親の胸に顔をうずめた。

 美桜はその光景を、通路の少し離れた場所から見ていた。
 ――やっぱり、この人は優しい。
 そう思うのに、その優しさが自分にだけ向けられたものでないことも、痛いほどわかっている。

     

 嵐を抜けた頃、機内はようやく落ち着きを取り戻した。
 美桜がカートの整理をしていると、遼が近づいてきた。
「さっきの揺れのとき、よく踏ん張ったな」
 唐突な言葉に、美桜は瞬きをした。
「……ありがとうございます」
 視線を合わせたのは一瞬だけ。遼はすぐ背を向けて去っていった。

 それでも、ほんのわずかに距離が縮まったような錯覚を覚えた。

     

 ホノルル到着後のホテル。
 同僚たちは夕食に出かけるというが、美桜は部屋に残った。疲労と、揺れの中で感じた遼の手の感触が、まだ胸に残っていたからだ。
 窓から見える夕焼けが海を金色に染める。
 その景色をぼんやり眺めていると、ドアの向こうから笑い声が聞こえた。
 覗くと、遼と森川が並んで歩いていく後ろ姿。
 買い物袋を手に、肩が自然に寄り添う距離。

 ――また、私の知らない時間。
 胸に溜まった温かさが、一瞬で冷えていく。

     

 復路の便。
 離陸後しばらくして、直哉が後方ギャレーで声をかけてきた。
「美桜、昨日は部屋にいたの? 誘えばよかったな」
「……ちょっと疲れてて」
 何気ない会話。しかし、その後方から聞こえた足音に気づき、振り向くと遼が通り過ぎていくところだった。
 表情は硬く、声もかけない。

 その背中が視界から消えるまで、美桜はただ立ち尽くしていた。

     

 成田到着。
 ゲートで乗客を見送る中、遼はいつも通り淡々とした笑顔――いや、笑顔というにはわずかすぎる口元の緩みを見せていた。
 けれど、それが自分に向けられることはなかった。

 嵐の夜、確かに少しだけ近づいたと思った距離は、やはり錯覚だったのだろうか。
 美桜の胸には、また新しいもどかしさが積み重なっていった。
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