二つの航路
第五章 決定的な誤解
成田空港の朝。
夏の湿気を帯びた空気が、制服の襟元にまとわりつく。
ブリーフィングルームに入ると、すでに何人かの乗務員が着席していた。
今日はロンドン便。往復で三日間を要する長距離フライトだ。
配られた書類に目を落とす美桜は、ふと横から覗き込む視線を感じた。
「今日もよろしくな」
軽く笑いながら声をかけてきたのは直哉だった。
「よろしく」と返すと、彼は机の上に肘をつき、何か言いたげに口を開く。
「帰りの便、乗務終わったら話があるんだ」
何の話かと尋ねる前に、チーフパーサーの声がブリーフィング開始を告げた。
その時、美桜は気づかなかった。
部屋の斜め後ろに立つ遼が、その会話の一部を確かに耳にしていたことを。
離陸後数時間。
巡航に入り、機内サービスが始まった。
通路を進みながらワゴンを操作する美桜の視界に、遼の姿が映る。
ビジネスクラスの乗客と短く言葉を交わし、淡々と持ち場へ戻っていく。その背中はどこか硬く、近寄りがたい。
揺れが収まり、ギャレーで直哉と鉢合わせた。
「さっきの話だけどさ、俺、来月から短期間だけ海外勤務になりそうで」
「え、そうなの?」
「うん。で、美桜も海外拠点希望してるなら、向こうでの話、少しはできるかなって」
明るく言う直哉に、美桜は微笑みを返す。
しかし、その会話の背後から足音が近づき、そして通り過ぎていった。
遼だ。
視線も声も向けず、ただ無言で去っていく。
――また、避けられた。
ロンドン到着後のホテル。
古い建物を改装した部屋は天井が高く、窓の外には石畳の道が続いている。
荷物を置き、スカーフを外すと、ドアがノックされた。
直哉だった。
「近くにいい店見つけたんだ。一緒に行かない?」
最初は断ろうと思った。けれど、部屋に一人でいるよりは気が紛れる。
「……いいよ」
二人でホテルを出ると、夜のロンドンは昼間とは違う静けさをまとっていた。ガス灯の下、店の看板が暖かな光を放つ。
食事をしながら、直哉は仕事や将来の話をした。美桜も自然と笑顔になった。
帰り道、ホテルのロビーに入った瞬間、空気が変わった。
フロント前のソファに、遼が座っていたのだ。
手元の書類から顔を上げ、無言で二人を見やる。その視線は冷たくはないが、何かを押し殺しているように見えた。
「お疲れさまです」と声をかけても、遼は軽く頷くだけだった。
復路の便。
美桜は出発前の準備で客席を回っていた。ふと前方で森川と遼が立ち話をしているのが見える。
森川が笑い、遼もわずかに口元を緩める。その自然な光景は、胸の奥にまた別の棘を刺した。
自分には見せない表情。
――結局、私なんて何でもない存在なんだ。
巡航に入って間もなく、機内が揺れ始めた。
軽い乱気流のはずだったが、思った以上に長く続く。
安全確認のため通路を進んでいると、前方から遼の声が飛んだ。
「佐伯、戻れ」
有無を言わせない低い声に、美桜は足を止めた。
「でも、まだ——」
「いいから」
短く鋭いその言葉に、胸が冷たくなる。
席に戻る途中、後方から直哉が小声で「心配してるんだよ」と囁いた。
けれど、それは慰めにはならなかった。
成田到着。
乗客を送り出し、機内の片付けをしていると、森川が美桜に声をかけてきた。
「ねえ、東條機長ってさ……もしかして美桜ちゃんのこと、気にしてるんじゃない?」
「え……そんなこと、ないと思います」
「でも、この前なんて、あなたの名前が出ただけで表情変わってたわよ」
信じられない。
そう思いながらも、胸の奥に小さな波紋が広がる。
しかし、その直後――出口に向かう遼と目が合った。
ほんの一瞬だけ、何かを言いかけたような口の動き。けれど結局、彼は視線を逸らし、無言で通り過ぎていった。
その背中を見送りながら、美桜は唇を噛みしめた。
――このままじゃ、何も変わらない。
けれど、自分から踏み込む勇気は、まだ持てなかった。
夏の湿気を帯びた空気が、制服の襟元にまとわりつく。
ブリーフィングルームに入ると、すでに何人かの乗務員が着席していた。
今日はロンドン便。往復で三日間を要する長距離フライトだ。
配られた書類に目を落とす美桜は、ふと横から覗き込む視線を感じた。
「今日もよろしくな」
軽く笑いながら声をかけてきたのは直哉だった。
「よろしく」と返すと、彼は机の上に肘をつき、何か言いたげに口を開く。
「帰りの便、乗務終わったら話があるんだ」
何の話かと尋ねる前に、チーフパーサーの声がブリーフィング開始を告げた。
その時、美桜は気づかなかった。
部屋の斜め後ろに立つ遼が、その会話の一部を確かに耳にしていたことを。
離陸後数時間。
巡航に入り、機内サービスが始まった。
通路を進みながらワゴンを操作する美桜の視界に、遼の姿が映る。
ビジネスクラスの乗客と短く言葉を交わし、淡々と持ち場へ戻っていく。その背中はどこか硬く、近寄りがたい。
揺れが収まり、ギャレーで直哉と鉢合わせた。
「さっきの話だけどさ、俺、来月から短期間だけ海外勤務になりそうで」
「え、そうなの?」
「うん。で、美桜も海外拠点希望してるなら、向こうでの話、少しはできるかなって」
明るく言う直哉に、美桜は微笑みを返す。
しかし、その会話の背後から足音が近づき、そして通り過ぎていった。
遼だ。
視線も声も向けず、ただ無言で去っていく。
――また、避けられた。
ロンドン到着後のホテル。
古い建物を改装した部屋は天井が高く、窓の外には石畳の道が続いている。
荷物を置き、スカーフを外すと、ドアがノックされた。
直哉だった。
「近くにいい店見つけたんだ。一緒に行かない?」
最初は断ろうと思った。けれど、部屋に一人でいるよりは気が紛れる。
「……いいよ」
二人でホテルを出ると、夜のロンドンは昼間とは違う静けさをまとっていた。ガス灯の下、店の看板が暖かな光を放つ。
食事をしながら、直哉は仕事や将来の話をした。美桜も自然と笑顔になった。
帰り道、ホテルのロビーに入った瞬間、空気が変わった。
フロント前のソファに、遼が座っていたのだ。
手元の書類から顔を上げ、無言で二人を見やる。その視線は冷たくはないが、何かを押し殺しているように見えた。
「お疲れさまです」と声をかけても、遼は軽く頷くだけだった。
復路の便。
美桜は出発前の準備で客席を回っていた。ふと前方で森川と遼が立ち話をしているのが見える。
森川が笑い、遼もわずかに口元を緩める。その自然な光景は、胸の奥にまた別の棘を刺した。
自分には見せない表情。
――結局、私なんて何でもない存在なんだ。
巡航に入って間もなく、機内が揺れ始めた。
軽い乱気流のはずだったが、思った以上に長く続く。
安全確認のため通路を進んでいると、前方から遼の声が飛んだ。
「佐伯、戻れ」
有無を言わせない低い声に、美桜は足を止めた。
「でも、まだ——」
「いいから」
短く鋭いその言葉に、胸が冷たくなる。
席に戻る途中、後方から直哉が小声で「心配してるんだよ」と囁いた。
けれど、それは慰めにはならなかった。
成田到着。
乗客を送り出し、機内の片付けをしていると、森川が美桜に声をかけてきた。
「ねえ、東條機長ってさ……もしかして美桜ちゃんのこと、気にしてるんじゃない?」
「え……そんなこと、ないと思います」
「でも、この前なんて、あなたの名前が出ただけで表情変わってたわよ」
信じられない。
そう思いながらも、胸の奥に小さな波紋が広がる。
しかし、その直後――出口に向かう遼と目が合った。
ほんの一瞬だけ、何かを言いかけたような口の動き。けれど結局、彼は視線を逸らし、無言で通り過ぎていった。
その背中を見送りながら、美桜は唇を噛みしめた。
――このままじゃ、何も変わらない。
けれど、自分から踏み込む勇気は、まだ持てなかった。