二つの航路
第六章 揺れる心
成田発シドニー行き。
出発前から、機内には張りつめた空気が漂っていた。太平洋南部で低気圧が発達しており、航路の一部で強い乱気流が予想されていたからだ。
ブリーフィングルームで遼は淡々と説明を続けていた。
「巡航中、シートベルトサインが点灯したら、即座にサービスを中止して乗務員も着席すること。安全第一だ」
その目が一瞬、美桜をとらえた。すぐに逸らされたが、その短い視線の奥に何かが宿っていた気がした。
離陸後二時間。
機体は高度を安定させていたが、予報通りの乱気流はまだ先だ。
美桜はワゴンを押しながら通路を進む。隣の席では直哉が客に飲み物を手渡している。自然と小さな会話が生まれ、二人で笑う瞬間があった。
ふと、前方で視線を感じた。
遼が通路の奥からこちらを見ていた。表情は読めない。
――やっぱり、何か思ってる? でも、どうせ良い意味じゃない。
自分の中でそう結論づけ、心を閉ざす。
そのとき、不意に機体が大きく揺れた。
カップの中身が跳ね、通路に小さな水滴が散る。
遼の声が鋭く響いた。
「サービス中止! 全員着席!」
揺れが続く中、美桜は慌ててワゴンを固定し、客席に向かおうとした。
だが、その腕を遼が掴んだ。
「お前もだ、佐伯!」
制服越しに伝わる強い力に、思わず足を止める。
「でも——」
「いいから!」
その目には苛立ちではなく、明確な焦りがあった。
二人で急いで後方座席に腰を下ろす。安全ベルトを締めた瞬間、機体がさらに大きく揺れた。
手すりを握る美桜の手の上に、遼の手が重なる。
「大丈夫だ」
低く、抑えた声。それは周囲に聞こえる必要もないほど近かった。
数分後、揺れが収まり、機内は再び静けさを取り戻した。
遼は黙って立ち上がり、自分の持ち場へ戻っていく。
美桜は手のひらに残る体温を感じながら、心臓の鼓動が落ち着かないのを必死に隠した。
シドニー到着後のホテル。
ロビーで美桜は直哉と出くわした。
「夕飯、どうする?」
軽い誘いに、「まだ決めてない」と答える。
そこへエレベーターから降りてきた遼が現れた。
一瞬、三人の視線が交差する。
遼の表情は変わらないが、その目の奥にわずかな陰りが差したように見えた。
翌日、復路の便。
出発準備を終えた美桜は、後方ギャレーで直哉と雑談をしていた。
「帰ったら、あの海外拠点の話、ちゃんと聞かせてくれよ」
その瞬間、後ろから遼の声が落ちた。
「佐伯、ブリーフィング室で話がある」
低く抑えられた声。それが命令のように響き、美桜は思わず背筋を伸ばした。
小さな部屋に二人きり。
遼はしばらく黙っていたが、やがて口を開く。
「……お前、あの海外拠点に行くつもりか」
「え?」
なぜそれを知っているのかと聞く前に、続けざまの言葉が落ちた。
「俺は——」
そこで言葉が途切れた。遼は視線を落とし、拳を握りしめている。
何かを言いかけたのはわかった。けれど、結局それは口にはされなかった。
ただ、部屋を出るとき、ほんの一瞬だけ彼の指先が自分の腕に触れた。
その微かな温もりだけが、何よりも雄弁に心を乱した。
成田到着。
ゲートで乗客を見送る中、遼と視線が合う。
その目は何かを伝えたがっているように見えた。
けれど、次の瞬間には逸らされ、淡々と別れの言葉を告げられただけだった。
――どうして、何も言ってくれないの。
胸の奥に、もどかしさと痛みが同時に広がっていく。
その夜、美桜は自分の心がどこに向かっているのか、もう否定できなくなっていた
出発前から、機内には張りつめた空気が漂っていた。太平洋南部で低気圧が発達しており、航路の一部で強い乱気流が予想されていたからだ。
ブリーフィングルームで遼は淡々と説明を続けていた。
「巡航中、シートベルトサインが点灯したら、即座にサービスを中止して乗務員も着席すること。安全第一だ」
その目が一瞬、美桜をとらえた。すぐに逸らされたが、その短い視線の奥に何かが宿っていた気がした。
離陸後二時間。
機体は高度を安定させていたが、予報通りの乱気流はまだ先だ。
美桜はワゴンを押しながら通路を進む。隣の席では直哉が客に飲み物を手渡している。自然と小さな会話が生まれ、二人で笑う瞬間があった。
ふと、前方で視線を感じた。
遼が通路の奥からこちらを見ていた。表情は読めない。
――やっぱり、何か思ってる? でも、どうせ良い意味じゃない。
自分の中でそう結論づけ、心を閉ざす。
そのとき、不意に機体が大きく揺れた。
カップの中身が跳ね、通路に小さな水滴が散る。
遼の声が鋭く響いた。
「サービス中止! 全員着席!」
揺れが続く中、美桜は慌ててワゴンを固定し、客席に向かおうとした。
だが、その腕を遼が掴んだ。
「お前もだ、佐伯!」
制服越しに伝わる強い力に、思わず足を止める。
「でも——」
「いいから!」
その目には苛立ちではなく、明確な焦りがあった。
二人で急いで後方座席に腰を下ろす。安全ベルトを締めた瞬間、機体がさらに大きく揺れた。
手すりを握る美桜の手の上に、遼の手が重なる。
「大丈夫だ」
低く、抑えた声。それは周囲に聞こえる必要もないほど近かった。
数分後、揺れが収まり、機内は再び静けさを取り戻した。
遼は黙って立ち上がり、自分の持ち場へ戻っていく。
美桜は手のひらに残る体温を感じながら、心臓の鼓動が落ち着かないのを必死に隠した。
シドニー到着後のホテル。
ロビーで美桜は直哉と出くわした。
「夕飯、どうする?」
軽い誘いに、「まだ決めてない」と答える。
そこへエレベーターから降りてきた遼が現れた。
一瞬、三人の視線が交差する。
遼の表情は変わらないが、その目の奥にわずかな陰りが差したように見えた。
翌日、復路の便。
出発準備を終えた美桜は、後方ギャレーで直哉と雑談をしていた。
「帰ったら、あの海外拠点の話、ちゃんと聞かせてくれよ」
その瞬間、後ろから遼の声が落ちた。
「佐伯、ブリーフィング室で話がある」
低く抑えられた声。それが命令のように響き、美桜は思わず背筋を伸ばした。
小さな部屋に二人きり。
遼はしばらく黙っていたが、やがて口を開く。
「……お前、あの海外拠点に行くつもりか」
「え?」
なぜそれを知っているのかと聞く前に、続けざまの言葉が落ちた。
「俺は——」
そこで言葉が途切れた。遼は視線を落とし、拳を握りしめている。
何かを言いかけたのはわかった。けれど、結局それは口にはされなかった。
ただ、部屋を出るとき、ほんの一瞬だけ彼の指先が自分の腕に触れた。
その微かな温もりだけが、何よりも雄弁に心を乱した。
成田到着。
ゲートで乗客を見送る中、遼と視線が合う。
その目は何かを伝えたがっているように見えた。
けれど、次の瞬間には逸らされ、淡々と別れの言葉を告げられただけだった。
――どうして、何も言ってくれないの。
胸の奥に、もどかしさと痛みが同時に広がっていく。
その夜、美桜は自分の心がどこに向かっているのか、もう否定できなくなっていた