二つの航路
第八章 遠ざかる背中
パリ便から戻って一週間。
春の気配が漂い始めた成田空港は、観光客で賑わっていた。
美桜は制服のスカーフを整え、ブリーフィングルームのドアを開ける。
今日の行き先はニューヨーク。メンバー表には、また遼と森川、そして直哉の名前があった。
部屋の隅では、遼が資料を手に航路図を確認している。
横顔は相変わらず精緻で、近寄れば冷たくされるとわかっていても、視線を外すことができなかった。
「今日もよろしくお願いします」と声をかけようと息を吸った瞬間、直哉が先に彼の方へ歩み寄った。
何やら話している二人の間に割って入る勇気はなく、美桜は黙って席に着いた。
離陸後数時間、機体は穏やかに巡航していた。
通路を挟んで直哉とすれ違うとき、彼が小さく笑みを見せる。
「この前の話、帰りの便で少し時間取れる?」
「……わかった」
そう返した直後、通路の先で遼と目が合った。
表情は変わらないが、視線の奥に硬い色が混じっているように見えた。
次の瞬間には逸らされ、その背中が遠ざかっていく。
ニューヨーク到着後、ホテルのロビーで同僚たちと集合時間を確認していると、遼と森川が並んで入ってきた。
森川の腕には紙袋があり、中にはホテル近くのベーカリーの箱が見えた。
何気ない会話の中で、森川が「機長の好きなマフィン」と笑いながら言う。
その瞬間、美桜の胸にまた小さな棘が刺さった。
――私が知らない彼の好み。
知りたいと思っても、知る機会がないまま、時間だけが過ぎていく。
翌日のオフ、美桜は直哉に誘われて、短時間だけ街を歩いた。
昼のブロードウェイは観光客であふれ、陽射しが硝子に反射して眩しい。
カフェで休憩を取っていると、窓の外を遼が通り過ぎた。
こちらに気づいたかはわからない。
ただ、視線を向けることなく人混みに紛れていくその背中が、なぜか強く胸に焼きついた。
復路の便。
離陸前の確認を終えると、遼が低い声で言った。
「佐伯、到着後すぐ帰れるように準備しておけ」
理由は説明されない。
「わかりました」と答えるしかなかったが、胸の奥に冷たい違和感が広がった。
――やっぱり私を避けてる。
巡航中、突然機体が大きく揺れた。
シートベルトサインが点灯し、客室がざわめく。
美桜は近くの乗客に「ベルトをお締めください」と声をかけながら通路を進んだ。
その瞬間、さらに強い揺れ。足元がふらつき、体が横に流れた。
腰を支える強い腕。
「危ない」
遼だった。
引き寄せられた距離は、息が触れそうなほど近い。
心臓が跳ねるのと同時に、彼はすぐ手を離し、背を向けて去っていった。
温もりだけが残され、言葉は何もなかった。
着陸後。
乗客を見送り終え、片付けをしていると、森川が美桜に近づいた。
「ねえ、機長ってあなたのこと……気にしてるんじゃない?」
「そんなこと、ないです」
「ふふ、そうかしら」
冗談のように笑う声に、心がわずかに波立つ。
でも、それは出口付近で遼が何も言わずに先に歩き去る姿を見た瞬間、重く沈んだ。
空港のスタッフ通路。
制服姿のまま、遼と直哉がすれ違いざまに言葉を交わしているのが見えた。
立ち止まった美桜の耳には、その内容までは届かない。
ただ、直哉が何かを真剣な表情で話し、遼が短く頷くのが見えた。
――二人の間で、私の知らない何かが動いている。
胸の奥で、言葉にならない不安と期待がせめぎ合った。
だが、それを確かめる勇気はまだ、持てなかった。
春の気配が漂い始めた成田空港は、観光客で賑わっていた。
美桜は制服のスカーフを整え、ブリーフィングルームのドアを開ける。
今日の行き先はニューヨーク。メンバー表には、また遼と森川、そして直哉の名前があった。
部屋の隅では、遼が資料を手に航路図を確認している。
横顔は相変わらず精緻で、近寄れば冷たくされるとわかっていても、視線を外すことができなかった。
「今日もよろしくお願いします」と声をかけようと息を吸った瞬間、直哉が先に彼の方へ歩み寄った。
何やら話している二人の間に割って入る勇気はなく、美桜は黙って席に着いた。
離陸後数時間、機体は穏やかに巡航していた。
通路を挟んで直哉とすれ違うとき、彼が小さく笑みを見せる。
「この前の話、帰りの便で少し時間取れる?」
「……わかった」
そう返した直後、通路の先で遼と目が合った。
表情は変わらないが、視線の奥に硬い色が混じっているように見えた。
次の瞬間には逸らされ、その背中が遠ざかっていく。
ニューヨーク到着後、ホテルのロビーで同僚たちと集合時間を確認していると、遼と森川が並んで入ってきた。
森川の腕には紙袋があり、中にはホテル近くのベーカリーの箱が見えた。
何気ない会話の中で、森川が「機長の好きなマフィン」と笑いながら言う。
その瞬間、美桜の胸にまた小さな棘が刺さった。
――私が知らない彼の好み。
知りたいと思っても、知る機会がないまま、時間だけが過ぎていく。
翌日のオフ、美桜は直哉に誘われて、短時間だけ街を歩いた。
昼のブロードウェイは観光客であふれ、陽射しが硝子に反射して眩しい。
カフェで休憩を取っていると、窓の外を遼が通り過ぎた。
こちらに気づいたかはわからない。
ただ、視線を向けることなく人混みに紛れていくその背中が、なぜか強く胸に焼きついた。
復路の便。
離陸前の確認を終えると、遼が低い声で言った。
「佐伯、到着後すぐ帰れるように準備しておけ」
理由は説明されない。
「わかりました」と答えるしかなかったが、胸の奥に冷たい違和感が広がった。
――やっぱり私を避けてる。
巡航中、突然機体が大きく揺れた。
シートベルトサインが点灯し、客室がざわめく。
美桜は近くの乗客に「ベルトをお締めください」と声をかけながら通路を進んだ。
その瞬間、さらに強い揺れ。足元がふらつき、体が横に流れた。
腰を支える強い腕。
「危ない」
遼だった。
引き寄せられた距離は、息が触れそうなほど近い。
心臓が跳ねるのと同時に、彼はすぐ手を離し、背を向けて去っていった。
温もりだけが残され、言葉は何もなかった。
着陸後。
乗客を見送り終え、片付けをしていると、森川が美桜に近づいた。
「ねえ、機長ってあなたのこと……気にしてるんじゃない?」
「そんなこと、ないです」
「ふふ、そうかしら」
冗談のように笑う声に、心がわずかに波立つ。
でも、それは出口付近で遼が何も言わずに先に歩き去る姿を見た瞬間、重く沈んだ。
空港のスタッフ通路。
制服姿のまま、遼と直哉がすれ違いざまに言葉を交わしているのが見えた。
立ち止まった美桜の耳には、その内容までは届かない。
ただ、直哉が何かを真剣な表情で話し、遼が短く頷くのが見えた。
――二人の間で、私の知らない何かが動いている。
胸の奥で、言葉にならない不安と期待がせめぎ合った。
だが、それを確かめる勇気はまだ、持てなかった。