猫のキミと暮らせば
第1部 猫君様現代へ
プロローグ
我は帝の側女の腹に生まれた身。
都を離れた里山で、半ば幽閉されるように育てられた。
そこには母代わりの乳母、姉のように世話を焼く乳兄弟の小夜、そして琥珀の瞳を持つ黒猫のクロとの、穏やかな「自由」があった。
我には、たった一つの取柄があった。
文を書くことである。
ある日のこと、小夜が、どこからか一通の恋文を手に戻ってきた。
命婦が殿方に送った文らしいが、どうやら返歌もなく、ただ捨て置かれていたという。
使いに立った小姓はすっかり肩を落とし、困り果てていた。
「せめて、お返事の形だけでもいただければ……と、あの小姓が泣きそうで……。」
そう語る小夜の手には、くしゃりと折られた文があった。
殿方が興味を持たなかったのならば、返す歌も不要。
だが、使いの者は結果を持ち帰らねばならぬ。
その話に、我はなぜだか胸が疼いた。
断るにしても、言葉ひとつで人の心は救える。
我はそっと筆をとり、返歌をしたためた。
あすさらに 面影清く なりぬれば かひある恋に なるやもしれぬ
やわらかく、けれど希望の余白を残した断りの歌。
やがてこの歌は命婦の心を励まし、美しさを磨く糧となったという。
そして、ついには、殿方の心を射止めたと、小夜は嬉しげに語った。
誰かの想いを言葉にする技はいつしか評判となり、「猫の君様」と呼ばれ、密かに恋文の代筆を請け負うようになった。
それから我は依頼主の希望に沿った和歌を詠み、小夜が使いの者に文を運んだ。
公達から可愛がられ、御息所や女房たちからは菓子をふるまわれるなど、それなりに世を渡っていたのであった。
「わがまま皇子」と蔑まれていた我にとって、言葉を通じて誰かの心に灯をともす日々は、この上なく誇らしく、幸福なものだった。
だが、その平穏は政変の火の手に一瞬にして崩れ去る。
炎の中、クロは何かを託すように我を振り返ると、音もなく闇へと消えた。
我は小夜と共に逃げ続けたが、もはやこれまでと悟り、森の奥で足を止めた。
「狙われているのは、我の首……小夜、ここで別れよう。
どうか生き延びてくれ。」
小夜は肩を震わせ、声を絞り出すように言った。
「我が君……もうしまいと覚悟のうえで、申し上げます。
ずっと、ずっとお慕い申し上げておりました。」
代書屋として数多の恋を見届けてきた我にはわかった。
小夜がどれほどの年月、この「儚き夢」を胸に秘めてきたかを。
儚き夢 身分の糸に 織り込まれ 思いは薄き 朝露のごと
小夜は袖に顔を伏せ、涙を拭った。
そして、最期の覚悟を込めて我を抱きしめた。
儚き夢 叶わぬ今を 嘆けども 夢のある道 来世に歩まん
「小夜……また会える日までの辛抱だ。
来世では必ず、其方を見つけてみせよう」
我はそっと彼女の手を放し、谷の縁から闇へと身を投じた。
意識が遠のく中、「クロのように自由に生きたい」と願った刹那、あの琥珀の瞳が闇の中に灯った。
死出の旅路ではない……見たこともない光へ続く道へ、クロが我を招いている。
「クロ……いや、我がクロに……なるのだな。」
まばゆい光に肌も心も溶け、気づけば我はクロの姿を纏い、柔らかな日だまりの中にいた。
小夜を呼ぼうと口を開く。
「みゃあ」
しかしこぼれたのは、情けないほど甘い仔猫の声だった。
驚き、目を開く。
そこには見知らぬ天井と、小さな黒い前足。
我は猫になったのだ。
ならばよし。
小夜を見つけるその日まで、この身ひとつで、自由に生きてみせよう。