猫のキミと暮らせば
一、弥生
春まだ遠く、冷え込む朝。
我は目覚めた。
そう、確かに思った。
人の都合で振り回されず、のんきに猫の生涯を送るのだと思っていた。
しかし、その終わりは唐突にやってきた。
灰色の空から雨粒が落ち、容赦なく生きる希望を奪っていった。
我には生まれたばかりだというのに、冷たい死の影が忍び寄っていた。
街路樹の下、箱に入った仔猫に気づくものもなく、力の限り呼んでみたが、ほどなく力尽き、深い眠りに落ちた。
このまま天上よりお迎えが来ることを覚悟していた。
キミと出会ったのはまだ寒い三月の雨の夜。
新入社員歓迎会の準備が終わり早々に家路についていた時、キミの声が聞こえたんだよ。
街路樹に隠れるように置かれた箱に入ったキミを見つけた。
抱き上げた瞬間、キミは小さく伸びをして、安心したように眠りに落ちた。
その小さな体を手袋で包み、温めるように抱えて帰った。
てのひらの 小さな命 暖かく ともに歩もう 夢のある道
どうしてそんな風に思ったかって?
私ね、もう若くないし、気づいたら、会社にいる時間のほうが長くなってて。
できることが増えた分だけ、頼られて、残業が増えて、家に帰る理由がなくなってた。
コンビニでビールとスイーツ買って、また明日って思うだけ。
……それだけ。
でもね、キミがいれば、何か変わるのかな。
ねえ、変えて。
……って、思っちゃった。
我は心地よいぬくもりと肌ざわり、大きな腕に抱かれていた。
どうやら、この女房が新たな主となるらしい。
屋敷に入るとすぐに厨があり、奥の間には寝所が整えてあった。
女房は我を湯で洗い、そっと布で拭いていた。
寝所の枕元に我をそっと置いた。
ほどなくして女房が寝所に入り、指で顎のあたりをさすってこういった。
「よろしくね、猫ちゃん。
私はね、さおりよ。」
こちらからよろしくお願いしたいほどである。
女房の指先をそっと舐めてみた。
「あら、おなかがすいているのかしら」
そう言うと女房は暖かいミルクを用意してくれた。
我は小皿に注がれた暖かいミルクをゆっくりと味わった。
女房は微笑みながらこう尋ねた。
「君に名前はあるのかな?
そんなこといってもわかんないよね?」
この世では、名すら与えられず、ただ震えていたのみだった。
まあ、前世の記憶があっても、伝えようがないので気にしないでいると、
「ねぇ、君は何て名前なの?」
かつての小夜のように「ねぇキミ」というので、思わず「にゃぁ」と応えてしまった。
「そっかぁ、『キミ』なんだね。
これからはずっと『キミ』と一緒だよ。」
そう言って女房は我を愛し気に抱きしめた。
どうしてわかったのか。
確かにかつての我は皇子であり、猫の君であった。
この際、細かいことは気にしない。
女房がキミと呼ぶならば、それが我が名となるのだ。
約束は 縁とともに 結ばれる 命の綱と 夢のある道
我は再び「君」と呼ばれるようになった。
これも何かの宿命か。
この女房にはわかるのであろうか?
我が高貴な血統であることを……。
女房との暮らしは闇夜に灯る、ただ一つの光であった。