花火が降る夜
第一話 記憶交差
第一話 前編
田舎のローカル線。二両編成の小さな電車が、のどかな景色の中をゆっくりと走っていた。
十両編成の電車が慌ただしく行き交う東京の駅とは、まるで別世界。
私は曽祖母の葬儀に向かっていた。
百歳、大往生。
いつ逝ってもおかしくない年齢だったのに。
涙が頬を伝った。
志乃おばあちゃんは少し耳が遠かったけど、電話ではいつも元気そうだった。
ここ数年は物忘れも増えていたけど。
「もう、あっちで勇作さんが待ってるからいつ死んでもいい」
明るく、よくそう言っていた。
一度だけ尋ねたことがある。
「勇作さんって、初恋の人なの?」
曽祖父ではない名前だったから。
「美咲ちゃんにだけ教えるね。初恋で、生涯愛したただひとりの人」
電話の向こうで、うふふと楽しそうに笑った。
曾祖父の宗一郎ではなく、別の男性を生涯愛していたと聞かされたとき、正直、複雑な気持ちになった。
けれど、宗一郎おじいちゃんと志乃おばあちゃんは、私の記憶の中では仲睦まじい夫婦だった。
年老いて思い出が蘇って心の奥をこぼしただけ。そう思い、深く考えないことにした。
初恋は鮮明だもんね
祖母の初恋の人かどうか確認したわけではないけど、私は言葉にはしないけど、そう思ったりした。
一度、母が言っていた。
「勇作さんってね、宗一郎おじいちゃんが若い頃に家にいた書生さんらしいの。篠原家のお墓に一緒に入ってて、宗一郎おじいちゃんが“家族だから”って言ったわね」
曽祖母には秘めた恋だったのかもしれない。
曽祖父には家族と同じくらいの大切な人。
一年前、入院した志乃おばあちゃんを仙台の病院に見舞った。結局、あれが今生の別れになったけど、ばあちゃんは私に言った。
「怜奈ちゃん、あの時はありがとう」
あの時って、何?
聞きたかったけれど、おばあちゃんは眠りに落ちて返事はもらえなかった。
その言葉は、今も胸にひっかかったままだ。
何でもないかもしれないし、私が忘れている何かかもしれない。
電車が停まる。雨ざらしの小さなホーム。
六年ぶりに、この町へ戻ってきた。
この町から私は逃げるように出て行った。
伝えるべき人に何も言わず、別れも告げず。
だからずっと帰ってこれなかった。
晴翔にきっと会う。
晴翔がどうか私のことなんて空気のように扱ってくれますように。
私の初恋で、初めて付き合った人で、お互いに全部が初めての相手で全てだった。
駅から家まで、田んぼの畦道を十分歩く。
真夏の陽射しが容赦なく照りつける。
朝晩こそ少し涼しいけれど、昼間の暑さは東京と変わらない。
途中、女の子とすれ違う。
白い日傘に白いワンピース。
十七歳くらいだろうか。可憐な姿の女の子。
狭い道ですれ違いざま、お互いの日傘が軽く触れた。
軽く会釈を交わす。
家が近づくにつれて、賑やかな声が聞こえてきた。
この辺りでは、百歳を超えた人の葬儀は「紅白饅頭」を配り、どこか祝祭めいた雰囲気になる。
亡くなったことを祝うのではなく、長寿を労うという意味で。
私の実家、篠原家は昔は地主で、この地域では大きな家。
今でも葬儀は自宅で行われる。
もう近所の人たちが手伝いに来ていて準備を整え、男たちは力仕事を終えて酒盛りを始めていた。
その輪の中に、晴翔の姿を見つけた。
思っていた以上の緊張が私の体を走る。足がすくみそうになった。
でも、すぐに目に入ったのは、志乃おばあちゃんの遺影だった。
私は棺へ駆け寄り、亡骸と対面した。
賑やかな声が響く中、私は棺の前で立ち尽くして泣いた。
志乃おばあちゃん──
勇作さんに会えましたか。
宗一郎おじいちゃんのことも忘れないでね。
あっちで修羅場なんて起こさないで。
会いに来なくてごめんね。
「怜奈」
肩に触れる手にビクリと体が跳ねる。
振り返らなくてもわかる。
「晴翔……」
彼を見られなかった。
涙が止まらなくて良かった。
「志乃おばあちゃん、前の日まで庭を歩いてたよ。最後まで元気だった」
変わらない、爽やかで穏やかな声。
私が好きだった、晴翔の空気感。
彼が好きだった。
そばにいたら、自分を見失いそうなほどに。
晴翔は「私だけでいい」という思いを隠さなかったし、私の存在を基準に将来を決めようとしていた。
だから私は――大学進学の時、何も告げずに東京へ行った。
幼馴染としてなら、ただの再会として笑えるはず。
そう思いたかった。
けれど、全然無理だ。晴翔に対して冷静な気持ちにはなれそうもなかった。
どうか晴翔がもう私のことはなんでもないと態度で示してほしい。恋人がいて今を楽しく生きていると言って欲しい。
なのに──
「怜奈、会いたかった」
その声は、他の人には届かないように、私の耳に囁くように言った。一気に甘く、重い空気をはらんで。
「晴翔……」
やめて。何のために離れたのか分からなくなる。
「今夜行くから、合図する」
肩を抱く手に、彼の迷いのない力を感じた。
田舎のローカル線。二両編成の小さな電車が、のどかな景色の中をゆっくりと走っていた。
十両編成の電車が慌ただしく行き交う東京の駅とは、まるで別世界。
私は曽祖母の葬儀に向かっていた。
百歳、大往生。
いつ逝ってもおかしくない年齢だったのに。
涙が頬を伝った。
志乃おばあちゃんは少し耳が遠かったけど、電話ではいつも元気そうだった。
ここ数年は物忘れも増えていたけど。
「もう、あっちで勇作さんが待ってるからいつ死んでもいい」
明るく、よくそう言っていた。
一度だけ尋ねたことがある。
「勇作さんって、初恋の人なの?」
曽祖父ではない名前だったから。
「美咲ちゃんにだけ教えるね。初恋で、生涯愛したただひとりの人」
電話の向こうで、うふふと楽しそうに笑った。
曾祖父の宗一郎ではなく、別の男性を生涯愛していたと聞かされたとき、正直、複雑な気持ちになった。
けれど、宗一郎おじいちゃんと志乃おばあちゃんは、私の記憶の中では仲睦まじい夫婦だった。
年老いて思い出が蘇って心の奥をこぼしただけ。そう思い、深く考えないことにした。
初恋は鮮明だもんね
祖母の初恋の人かどうか確認したわけではないけど、私は言葉にはしないけど、そう思ったりした。
一度、母が言っていた。
「勇作さんってね、宗一郎おじいちゃんが若い頃に家にいた書生さんらしいの。篠原家のお墓に一緒に入ってて、宗一郎おじいちゃんが“家族だから”って言ったわね」
曽祖母には秘めた恋だったのかもしれない。
曽祖父には家族と同じくらいの大切な人。
一年前、入院した志乃おばあちゃんを仙台の病院に見舞った。結局、あれが今生の別れになったけど、ばあちゃんは私に言った。
「怜奈ちゃん、あの時はありがとう」
あの時って、何?
聞きたかったけれど、おばあちゃんは眠りに落ちて返事はもらえなかった。
その言葉は、今も胸にひっかかったままだ。
何でもないかもしれないし、私が忘れている何かかもしれない。
電車が停まる。雨ざらしの小さなホーム。
六年ぶりに、この町へ戻ってきた。
この町から私は逃げるように出て行った。
伝えるべき人に何も言わず、別れも告げず。
だからずっと帰ってこれなかった。
晴翔にきっと会う。
晴翔がどうか私のことなんて空気のように扱ってくれますように。
私の初恋で、初めて付き合った人で、お互いに全部が初めての相手で全てだった。
駅から家まで、田んぼの畦道を十分歩く。
真夏の陽射しが容赦なく照りつける。
朝晩こそ少し涼しいけれど、昼間の暑さは東京と変わらない。
途中、女の子とすれ違う。
白い日傘に白いワンピース。
十七歳くらいだろうか。可憐な姿の女の子。
狭い道ですれ違いざま、お互いの日傘が軽く触れた。
軽く会釈を交わす。
家が近づくにつれて、賑やかな声が聞こえてきた。
この辺りでは、百歳を超えた人の葬儀は「紅白饅頭」を配り、どこか祝祭めいた雰囲気になる。
亡くなったことを祝うのではなく、長寿を労うという意味で。
私の実家、篠原家は昔は地主で、この地域では大きな家。
今でも葬儀は自宅で行われる。
もう近所の人たちが手伝いに来ていて準備を整え、男たちは力仕事を終えて酒盛りを始めていた。
その輪の中に、晴翔の姿を見つけた。
思っていた以上の緊張が私の体を走る。足がすくみそうになった。
でも、すぐに目に入ったのは、志乃おばあちゃんの遺影だった。
私は棺へ駆け寄り、亡骸と対面した。
賑やかな声が響く中、私は棺の前で立ち尽くして泣いた。
志乃おばあちゃん──
勇作さんに会えましたか。
宗一郎おじいちゃんのことも忘れないでね。
あっちで修羅場なんて起こさないで。
会いに来なくてごめんね。
「怜奈」
肩に触れる手にビクリと体が跳ねる。
振り返らなくてもわかる。
「晴翔……」
彼を見られなかった。
涙が止まらなくて良かった。
「志乃おばあちゃん、前の日まで庭を歩いてたよ。最後まで元気だった」
変わらない、爽やかで穏やかな声。
私が好きだった、晴翔の空気感。
彼が好きだった。
そばにいたら、自分を見失いそうなほどに。
晴翔は「私だけでいい」という思いを隠さなかったし、私の存在を基準に将来を決めようとしていた。
だから私は――大学進学の時、何も告げずに東京へ行った。
幼馴染としてなら、ただの再会として笑えるはず。
そう思いたかった。
けれど、全然無理だ。晴翔に対して冷静な気持ちにはなれそうもなかった。
どうか晴翔がもう私のことはなんでもないと態度で示してほしい。恋人がいて今を楽しく生きていると言って欲しい。
なのに──
「怜奈、会いたかった」
その声は、他の人には届かないように、私の耳に囁くように言った。一気に甘く、重い空気をはらんで。
「晴翔……」
やめて。何のために離れたのか分からなくなる。
「今夜行くから、合図する」
肩を抱く手に、彼の迷いのない力を感じた。